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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

シカエシ 三十六




 呆気ない。
 母親は目を丸くし、自分の胸とユサを交互に見て、後方に一歩、二歩、下がった。
 母親の口の端から、赤い血が一筋垂れる。
「ァァァアアオオオオァアアアアアキャァァアアガァァァァアアアアアキャァァアアアアアアア」
 母親は鉄パイプを振り上げて叫んだ。甲高い音が狂った部屋に響く。母親はいやいやと騒ぐだだっ子のように顔を振り、鉄パイプを手から落とした。胸から突き出た柄を握ると後方に倒れ、仰向けに大の字となった。改めて目を大きく開き、口から血を吐いた。上下に揺れる胸の動きが弱まっていく。そして大きな息をひとつ吐いた。もう呼吸が完全に止まった。
 起き上がる気配は無い。
 ユサはゆらりと立ち上がると、母親の体に馬乗りになり、胸から飛び出た柄を両手で掴んで引き抜いた。母親の胸が、服が、血で赤く染まった。
 ケイタは死んだと思っていた母親の口が微かに動いていることに気づいた。
 ユサは両手で包丁の柄を掴むと、その刃先を母親の顔に向け、落とすように突き刺した。
 躊躇は無い。
 放り出された母親の足が、びぐんと跳ね、痙攣した。
 ユサは母親の顔に、包丁を突き立て続けた。
 何度も何度も。
 血の飛沫が起こる。
 ケイタはその鬼気迫る姿に圧倒され止めることが出来ず、見つめるだけになった。
 ユサは母親の顔を刺し続ける。
 ユサに近づく影があった。
 レンだ。
 包丁により傷ついた肩を、手で抑えながら口を開いた。
「なっ、なにしてんの」
 声は震えている。
 ケイタは這って近づいた。鼻は麻痺している。血の臭いも嗅げないが、向かう。守らなければならないと強く思った。ユサの元に行かないと。
 守らなければ。
 ユサは母親の顔を刺すのを止めず、レンを一瞥もせずに言い捨てた。
「見たら解るでしょう。殺しているのよ」
 母親の顔は人間の顔では無くなっていた。眼球だろう、白と黒の球体が血の中に浮かんでいる。黄色い小石のような物は歯だろうか。包丁が振り下ろされると、血の中に沈んだ。
「やめろよ。ボクの母さんだぞ!」
「知らないわよ」
 体を震わせ抗議するレンに、ユサは冷たく言い放った。
 レンを人間として、いや、生物として認めていないような冷酷な態度だった。
 ケイタは這いつくばったまま、ユサの腕を掴んで言った。
「もう死んでる」
「そう」
 ユサは立ち上がって言い、レンを見た。
 レンは叱られた幼子のように跳ねた。
 ユサはレンに近づき、血塗れの傷口に包丁を突き立てた。豆腐を刺したような滑らかさで傷口に消える刃先。
「ガハァ、ガァァァ。何するんだよこのクソアマ!」
 ユサはレンに突き飛ばされたが、よろめいただけだ。
 手加減した訳ではないのだろう、力が入らないのだ。
 ユサがレンを見下ろす。
 レンがユサを見上げる。
 ケイタとしても何かしたいが、自由に動けないので、どうしようもない。
「逃げろ、逃げるんだ、ユサ」
 かろうじて、ケイタは言った。
「お母さん。どうしてあたしを残して死んだの?」
 薄笑いを浮かべ、ユサが言った。やはりロボットのような口調だった。
 お母さん? ケイタにはユサが言った言葉の意味が分からなかった。なぜ、今、ユサは母親のことを言ったのか理解できなかった。
 ユサがレンの肩に手を伸ばした。人差し指は、ぴんと伸びている。指先がレンの傷口に吸い込まれていく。ユサは笑っている。楽しいゲームでもしているようだった。
 ケイタはユサの中にそんな残酷な一面があると想像すらしていなかった。どうなったんだと、息を飲んだ。
「痛い?」
 ユサが顔を横に傾げ、レンに言った。
「やめてやめてやめて。痛い」
 レンは何度も頷きながら叫び続ける。
「なんで?」
 ユサは自由な左手でレンの髪を掴んで言った。
 レンは泣きながら、両手を握り、やめてと懇願している。叱られるただの子供でしかない。
 ユサはレンの傷口を指でこねくり回した。敵だった家族の狂気が乗り移ったように。
「ほら、痛い? 見せてよ。どんなに痛いか説明してよ。どうしたのよ。泣いてるだけでは分からないわよ。ほら、ほら、ほら」
 耐えきれなくなったのだろう、ユサの手を払ったレンは体育座りをすると、親指を咥えて抜き、叫んだ。
「おまえらなんなんだよ!」
 ユサは叫びを無視した。レンから離れ、母親の振り回していた鉄パイプを掴み、ゆっくりレンの元に戻った。
 一連の動作に、躊躇や不自然さは無い。
「なっ、なにするの?」
「決まってるじゃない。あんたをこれから殺すのよ。あたしの中にある、お母さんへの……大事な大事なお母さんへのあたしの中にある濁った想いと一緒に」
 レンの問いに、なんでもないというようにユサが言った。
「どうして、あたしを残して……死んじゃったの?」
 ケイタはユサの口から出てきた言葉で気づいた。
 同時に、花見をしていたときに、言いかけて止めたときのことも思い出した。
 ユサは母親が居ないことに寂しさを感じていた。なぜ、寂しいのか。それは母親が、自分を残して死んでしまったからだ。なぜ死んだ? それは恨みとなって無意識の中にあったのかもしれない。
 この異常な状況が、無意識の奥底に沈んでいた悲しい恨みを表面に浮かび上がらせたのだろう。その恨みを目の前の母子に投影しているのかもしれない。ある種、催眠状態にかかっているのか。
 自分の中の黒く濁った想い。
 あってはならない恨みに対して復讐するために。
 同時に、ケイタは自分の中にある黒い闇にも気づいた。父親に対する恨みだ。
 自分を守るために死んでしまったシンゴ。
 それは自分のせいで死んだという負い目を、ケイタの中に生んだのだろう。レンの父親を殺した時、シンゴの顔と父親の顔が重なって見えた瞬間があったのは、そのせいだったのかもしれない。
 ユサは鉄パイプを引きずりながら、レンに近づいて行く。
 からららららら……。
 血塗れの部屋に、狂った音が響いた。
 もういいんだ、やめろとはケイタにも言えない。
 油断すれば、自分達がやられるかもしれないのだ。
 だが本当にいいのか。ユサの手を汚し続けていいのか。
 そんな訳は無い。何も出来ないのが歯痒いが、どうすることもできない。
 レンのかたわらで立ち止まったユサは、鉄パイプを振り上げ、無言で殴りはじめた。
 ケイタにはユサとレンの母親が重なったように見えた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 手を振り上げたレンは攻撃から身を守ろうとする。
 ユサには聞こえていないかもしれない。事務的に鉄パイプを振り降ろし、肉を殴り、鈍い音が生み続けている。
 ごづ、ごづっ。
 何度殴っただろう。
 力が抜けたのか、ユサの手から、鉄パイプがすっぽ抜けた。
 かららんらっらんからんかららら……鉄パイプは軽い音を響かせて止まった。
 レンはもう微かに息をしているだけだ。
 どんな顔だったかもわからない。
 全身の骨が折れているのか、動く気配は無い。
 ユサは転がる包丁を手に取ると、レンの手首を掴み、無理矢理指を開いた。
 人差し指の第一関節に刃先を当てると、一本ずつ、切り飛ばした。
「がはぁ!」
 レンの口から、血混じりの嗚咽が散った。
「もっ、もう止めろ!」
 ケイタがユサの肩に手を置いて怒鳴った。
「もう終わりだ。やめ……」
 ケイタは制止しようとしたが、ユサに手を払われた。
「これでもう何も握れない。でも一応」
 ユサはレンの手首を地面に押しつけ、大根でも切るように、腕から切り離した。
 レンはもう息をするだけの血塗れの肉の塊に変わっていた。
「ど、ど、うして。どうして……こ、こ、んな、ひっ、ひどいことする、んだ……ボッ、ボ……ク……は、ボク、は、あなた……の、運命……の、人、な……のに」
 羽と足を毟られ、蟻の群れの中にでも放り込まれたバッタのような弱々しい声で、レンが言った。
「あたしあなたのことが大嫌いなの。死んで欲しいの。あなたはあたしの大事な人を殺した。あなたたちはやりすぎた。もう我慢できなくなったの」
 ユサは無表情で言い、レンの首に包丁を突き立てた。
 レンの体がびくんと跳ね、動かなくなった。
 ユサの顔は真っ赤に染まっている。
「終わったね。邪魔者はいなくなった。守ったね。あたし達の未来」
 地獄で死者の魂を責め立てる鬼のようだったユサの顔に、優しい笑みが蘇った。
 ケイタは倒れ込んで来るユサを抱き止めたが、油断は出来ない。相手は怪物なのだ。
 ケイタはレンと母親を見た。動かない。確かに死んでいる。
 本当に終わりなのか。
「いや、まだだ」
 ケイタは視線を感じて振り返った。
 椅子の上にある頭蓋骨が自分達を見つめていた。
 ケイタは転がった鉄パイプを掴んだ。
 ユサとお互い支え合って立ち上がり、頭蓋骨に向かった。目を瞑れば息が止まってしまいそうなくらい疲労していたが、最後の力を振り絞った。
「これで終わりだ、本当に」
「うん」
 ケイタはユサと一緒に鉄パイプを掴み握り締めた。
「あぁぁぁぁ!」
 頭蓋骨に振り下ろし、二人一緒に叫んだ。
「悪夢よ、永遠に消え去っちまえ!」
 





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