シカエシ 三十七「今日はちょっと遅くなるかもしれないから」 黒い革靴をぎこちなく履きながら、ケイタは言った。 正直、最初は硬くて窮屈で自分には絶対合わないと思っていた。今では足に吸いついていると思えるくらい慣れた。 「浮気なんてしちゃいやよ」 目を細めたユサが、唇を緩ませながら言った。 ケイタは怒るより苦笑した。浮気なんてした日には、どんな目に遭うか考えるだけで震えてしまう。 「する訳無いでしょうが」 ケイタの答えに安心したのか、ユサは笑って目を瞑り、唇を突き出した。求めるように自分の唇を人差し指で、とんとんと軽く叩いた。 ケイタは頭を掻き掻き、乞われるまま、軽くユサの唇にキスをした。 「パパ、今日遅いんだってぇ」 キスに満足したのか、ユサは息子のタクマの頭を撫でながら言った。 タクマはユサの胸元で穏やかな寝息を立てている。頭を撫でられても、起きる気配は無い。 「なるべく早く帰れるように頑張るよ」 ケイタは玄関のドアを開き、ユサを振り返って言った。 「じゃぁ行って来るから」 「いってらっしゃい」 ユサは眠っているタクマの手を無理矢理持ち上げて横に振った。 タクマは寝たままだ。大物になるかもしれないなと、ケイタは苦笑しながらドアを閉めた。 マンションの前は公園だ。 誰に遠慮することも無く、桜が堂々と咲き誇っていた。 自転車に乗った中学生が、騒ぎながら通り過ぎて行く。 横をランドセルを背負った小学生が列を作り、登校していく。 空に雲など無粋な物は無い。曇りになる気配も無い。 暗い顔をした者も、嫌なことを忘れ、笑ってしまいそうな良い天気だった。平和な光景を眺めていると、あの狂った出来事が、ケイタには遠い昔にあった他人事のように思えた。 いったいなんだったのだろう。 今だからこそ冷静に考えられる。 お互い自分の幸せのために戦ったのだ。 あの家族が特殊だったのは、人間離れした力と、手段を選ばなかったことだ。人を殺しても満たそうとした欲望の力だ。ある意味、正直で純粋だったのかもしれない。だからこそ異常だった。出会わなければ、きっと、そんな人間など居ないと決め付けていただろう。 しかし考えてみると、程度はどうあれ、ケイタにはあの家族と同じ人間はたくさん居るように思えた。 テレビや新聞やニュースで、毎日、嫌でも見れるからだ。 詐欺、強盗、レイプ、恐喝、殺人は溢れている。 中には不幸の事故もあったかもしれない。したくなくても仕方なくという場合ももあったかもしれない。だがあの家族と同じく、純粋な自己中心的な欲望に突き動かされただけの者もたくさんいるだろう。 ケイタは不安になったが、逃げられないと思った。 自分たちはそんな世界に住んでいる。 死にたくなければ、幸せになりたければ、生きるしかない。 ケイタは太陽の明かりを手で遮って欠伸をした。 「今日こそ商談まとめないと。頑張らないと」 ユサとタクマの笑顔を浮かべながら、桜の前で立ち止まった。 家族のために生きなければならない。 何のためか決まっている。 守るために。幸せになるために。幸せにするため。 春風が吹いた。 桜の花弁が風にさらわれ、ふわりと舞った。 桜の色がにじんでいるように、空気が甘くなった。 ケイタは楽園にでも紛れ込んだ気がした。腰を曲げ、アスファルトに落ちた花弁を一枚摘んで顔を上げた。 桜の花弁が舞う向こうに、みんなが居た。 アサカワ、コウタロウ、アソウ、マツバラ、リュウヤ、コグレ夫妻、警察官……そして父親のシンゴ。 みんな笑って手を振っている。脇には、あの野良犬が舌を垂らし、尻尾を振っている。 「いってらっしゃい。がんばって」 みんなの声が、心の中に飛び込んで来て、強張った心を優しく撫でてくれた。 そんな幻。 ケイタは花弁を摘んだ指先を、そっと離した。 花弁は他の花弁と混ざると、どれがどれか分からなくなった。 ケイタは息を吐き、再び歩き出そうとした。しかし脳裏に嫌なことが過って立ち止まった。 「タクマ……」 考えていけない。 ユサは信じている。 でも時々、どちらにも似ていない気がするのだ。 善心を失った者の魂を集めて作ったような、冷たい目に見える時が……ある。 「馬鹿馬鹿しい」 ふざけんな。そんな訳あるか。 誰がなんと言おうと、タクマは、自分とユサの子供だ。 例え神様に違うと言われても認めない。 ケイタは頭を強く振った。自分の頬を拳で軽く殴り、強く声を張った。 「行ってきます!」 光に満ちた未来のため、桜の下を力強く歩きはじめた。 |