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2008.07.06
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前の日記、ブログの言葉・・「議論」と「おしゃべり」 その1 の続きです。

 ネットでの友人、齋藤博之さんから、厳しいご指摘・・でも、とても貴重な助言をいただき、このまま記事を書くことについて改めて考えてみました。この齋藤博之さんは、ちょっとだけですが、ネットマナーについて一緒に悩んだことがある方なので、今回のご指摘は真剣に受け止めなければ、と考えています。以下、いただいたコメントです。
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ことばだけが正しさを表すのか   斎藤博之さん
この記事のコメントに自分の主張は妥当だと書いている方がおられるところを観れば、すべての方の相互理解が深まったというわけでもなさそうですね。
わたしはことばを書くことを職業としていますので、正しさを表現する方法はことばだけではなく、しかも正しさの尺度はひとつだけではない、ということを肝に銘じるようにしています。それでも、正しさを信じなければことばは書けませんから、その正しさを主張することが社会的にどんな意味を担うのかを考えています。ここ二十年ばかりは、地方の農山漁村に暮らし、普段は社会に向けてことばを発しない人びとの、ことばを担うようにしてきました。
それはさておき、わたしのように書くことを職業とする者のことばであれば、著作権を侵さない範囲であれば、どこへ引用しようと、どんな批判をしようと、はじめから覚悟しているわけですし、責任も引き受けられるわけです。しかし、一般の方がブログに書かれたことについて、書かれたご当人のブログのコメントのなかでならいざ知らず、あのブログ、このブログと、議論の場を拡散させることは、いかがなものでしょうかね。みなさんはご自分の書いた批判は妥当だと信じておられるようですが、その批判の仕方は妥当ですか?ある問題についてではなく、その問題について特定の個人が特定の場所で行なった発言について、不特定の場所で批判することは、(批判される側が、「書く」ことを生業としている者か、社会的な権力を行使している者かでない限り)ネチケットに反していませんか?
わたしには、一連の「議論」の拡散は、ネットで繰り広げられる「いじめ」または「あらし」のように見えましたけど。もし、真面目に批判しようとしておられるのなら、その批判の方法が妥当であるかどうか、お考えいただかないと、同じようなトラブルがあちらでもこちらでも起きると思いますよ。(2008年07月04日 18時42分04秒)
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 でも、結論から言うと、やはり続けて書くことにしました。
 前回の記事ではまだまだ言葉が足らないので、きちんと仕上げないことには、かえって誤解を広げることになりますし、書かれた言葉に真剣に対応しているPsycheさんにも、話題の元ブログのすずめ先生にも失礼に当たると思いますから。
 
 前回記事で、たくさんある自己表現をするブログで書かれる言葉(文体、と言ったほうがいいかもしれません)の種類として、「議論の言葉」と「おしゃべりの言葉」という名付けをしてしてみました。

 私が「議論の言葉」と呼ぶのは、その文章の中の言葉だけで、伝えたいことが不特定多数の読者に伝わるよう、解釈の余地が限定できるように吟味された言葉です。・・純粋な「議論の言葉」は、それこそ齋藤博之さんが書いておられるように、覚悟を持って書かれていると考えます。また、「論」として書いたものに対して「論」として批判があれば、たとえ、かなり厳しい批判であっても、それは「論」を鍛える糧になります。さて、私自身について言えば、自分にその覚悟がきちんとできているかどうか、自信はないのですが(それが、私のブログの文体のばらつきになって現れていますよね・・)、批判があった場合には、できる範囲で応えていこうとは思っています。それは、考えを練る作業を続けていくということです。「議論の言葉」として「論」を立てる場合、必ずしもいわゆる客観的、あるいは科学的である必要はない(と私は考えていますが)、常に自分の考えを「仮説」としてとらえ、文中の結論を常に暫定的なものとして認識し、新しい情報が入ったときに「仮説」を組み立てなおす態度は必要である、と考えます。

 一方、「おしゃべりの言葉」と呼ぶのは、書き手の「素」の言葉です。書き手の生活世界や価値観や感情がある程度(程度はいろいろですけれども)未整理な状態のままであっても、そのまま文中に持ち込まれます。書き手が言葉を発する立場ですら、その人がもつ様々な社会関係の中の様々な立場が複合した状態・・職業人であり、家庭人であり、地域住民であり、男女それぞれの性を持つ存在であり、○○の趣味を持つ人である、全部を含めた「私」として、一つの役割意識の中に納まりきらない場合がある、と考えます。また、書き手はある程度読み手を想定して書いているわけですが、そこで想定される読み手像は、書き手の内面が反映されたものになると言えるでしょう。

 この「おしゃべりの言葉」で書かれた文章は、たとえ、文章自体がそれなりによく推敲されたものであっても、書き手の中にある未整理のモヤモヤとしたうまく言葉にならない部分まで、生のまま丸ごと読み手に差し出される場合があるわけです。つまり、この「おしゃべりの言葉」で書かれた文章は、言葉そのものを辞書的に理解しようとしたり、論説文の読み取りを行うときの方法で理解しようとしても無理がでてきます。
 読み手は、書かれていない言葉、書き手が整理しきれていない言葉を、自分の持っている感覚と照らし合わせて読み取ろうとしますから、「書かれた言葉」の解釈は「読み手の想像する書き手像」によって変わってしまいます。また、読み取る際に、読み手の普段からの考え方、価値観、そして読んでいるそのときの感情が、読み取りに影響を与えるという側面も無視できません。

 何度も引き合いに出してしまって恐縮ですが、今回のすずめ先生のブログで言えば、私は、当初タイトルの「報われない」にしても修正された後の「救われない」にしても、「親の責任」という言葉にしても、教師VS保護者、というスタンスというよりは、教師でもありかつおかあさんでもあり地域のおばちゃんでもある、ともかく子どもたちを育てる立場にある自分が、同じ立場の(主に)おばちゃんたちに叫ばずにおれなかった、「大事に大事に育てた結果がかえってあだになってしまいかねない今の子ども達の状態」についての警告、のように読めたんですね。で、それは、私がすずめ先生のファンだから、ということだけではなくて、私が普段、わが子やその友人、町で遊ぶ子ども達を見ていて感じていることの反映という側面もあるわけです。
 でも、例えば、同じこの私であっても、うちの娘、とろろ丼さんが学校で怪我をした直後だったら、そういう読みをしたかどうか。また、同じ怪我をした直後だとしても、学校の対応に納得している時とそうでない時ではおそらく感じ方、とらえ方は違うだろうと思います。

リアルで知っている人の文章であっても、書き手のそのときの感情がどうであるのかを読み手が想像して理解しようとして、かえって外れてしまうことだってあります。
 メールのトラブルってそういうものが結構ありますよね。同じ言葉であっても、ほんのちょっと声のトーンが違うだけで、まったく別の意味を持ってしまう、書き手が書いた時にイメージしている心の声のトーンと読み手が読んだ時に想定する書き手の心の声のトーンがズレてしまっているということが誤解の原因だったということ。会って話したり、電話でやりとりをすると、「え~、そんなつもりじゃなかったんだよ」「な~んだ、そうだったんだ・・」ということが、メールだけで解決しようとすればするほどこじれてしまった、という経験を持つ方は結構いらっしゃるのではないでしょうか?疑心暗鬼にかられているときには、メールの返信が遅れていることについても、相手がメールを見ることができない状態にあることを想像しにくくて、感情を害したらしいと判断してしまうことだってありますよね。
 ・・・・・今回の混乱にもコメントの削除の意図やトラックバックが反映されなかったこと(ほんとに、承認制でないのに反映されないってよくあることですよね・・サーバーか回線の問題なんだと思うのですが・・楽天の中だけでも時々あります)から、お互いの意図がうまく伝わらなかった場面もありましたね・・・・・

 ましてや、インターネット上に公開しているブログであれば、書き手の意図を離れた読み取りが起こってもそれは当たり前のことだと考えるしかない、と思います。
 「そういうつもりではなかった」としても、書かれた言葉は残ります。削除してもどこかで保存されているかもしれません。だから、「おしゃべりの言葉」でブログを書くときにもコメントのやりとりをするときにも、「批判」があったときにはきちんとした説明と振り返りが必要です。それはプロのライターでなくとも、特にブログで職業をある程度公開している人が、その職域に関する発言をするのであれば、やっぱり書いた言葉への責任は自覚していなくてはならないでしょう。
 けれども、この「おしゃべりの言葉」を「批判」するのであれば、書き手の意図を確認する作業は丁寧に行う必要があります。あまりにも読み手と書き手がそれぞれ「想定している状況」が異なっていれば、読み手の質問自体が書き手に伝わらない場合もありますし、なによりも、書き手自身の言葉がまだまだ未整理な状態であるときには、「批判」が「人格攻撃」として機能してしまいやすい。これは「批判」の対象となる「言葉」が「論」として練り上げられているわけではないことから、その「言葉」を発する人の全体像そのものに対する「評価」が「批判」の対象や根拠になりやすいからです。私は今、「人格攻撃として機能しやすい」という表現を用いました。これは「人格攻撃」をしているという意図があるかどうかはともあれ、お互いが理解しあう前に「批判」「指導」することには無理があるということを言いたいのです。お互いの理解はやり取りの中からしか生まれませんが、関係性によって読み取りが変わってしまう言葉をつかっているのですから、その関係をまず作るところからしか批判も指導もなりたたない。「何を言いたかったのかを理解しようとする」ということは、「やさしく諭す」というのとはまた違います。「諭す」というのは、相手を理解した上でなくては成り立たない関係だと思うからです。ここで、必要なのは、「おしゃべりの言葉」だからこそ、「議論の言葉」の時以上に、自分が理解した書き手の全体像を「仮説」として、冷静に提示する力かもしれません。反論、擁護もまた同様です。 

  

 思い、考えを文章にまとまる作業って、とても時間がかかります。
 けれども、「議論」や「意見交換」をして、お互いの理解を深め、一人ではたどりつけなかったはずの結論に至るときの喜びはとても大きなものです。
 まとめというほどのまとまりのある文章にはなりませんでしたが、今の私にはここが限界のようです。でも、私はしつこい性格なので、きっとこのテーマはこれからも形を変えて追いかけていくことになりそうです。今もすでに書きながら、「これって、対人援助の基礎と関わってくる問題だよね・・」と自分の中で反芻しています(話が広がりすぎてまとまらなくなるのが私の悪い癖です)。

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Last updated  2008.07.06 16:47:21
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