東京大空襲
3月10日は東京大空襲の祈念日です。昨年の夏休み、とろろ丼さんの宿題「平和新聞」作成に付き合って、初めて、東京大空襲・戦災資料センターへ行きました。↓公式ホームページhttp://www.tokyo-sensai.net/index.htmlそのときの日記は↓「写真で伝える 東京大空襲の傷あと・生き証人」2007年7月29日 この日は今日は、こちらの資料センターの友の会の5周年記念の集会でもあり、その中で、ギャラリー・トークが行なわれていました。 カメラマンの鈴木さんご本人によるスライドショーでの写真の説明です。鈴木賢士さんは、雑誌記者として30年仕事をなさったあと、写真の勉強をした、自称「定年カメラマン」の方です。 大東亜戦争の放置された犠牲者の方々、生き証人の方々を追って活動してこられました。そして、2005年、東京大空襲の被害者と遺族(戦災孤児の方もたくさんいらっしゃるそうです)が、国に対して謝罪と賠償を求めて裁判を起すという新聞報道を見てから、東京大空襲犠牲者遺族会をたずね、その原告の方々と連絡をとって取材を申し込み、会場の友の会参加者の中には、写真に写っておられる方が数人いらっしゃいました。その方たちのご発言も交えながらのスライドショーと展覧会見学でした。 2回目の「東京大空襲 戦災資料センター」2007年8月26日 この日は常設展示をじっくり観て来ました。 小さな資料センターですが、手紙や印刷媒体(ビラや新聞から配給の通帳、被災証明書等)といった文字情報の展示がかなりあるため、結局丁寧に読めたのは今回行ったにもかかわず、まだ半分くらいでしょうか。とろろ丼さんは、宿題である「平和新聞」の取材をかねていますから、熱心にメモをとったり、B29の構造や焼夷弾のしくみの図解を模写していました。 そして、東京大空襲の被災者による空襲を描いた絵画群です。低空飛行のB29の群、その機体を追う日本軍のサーチライトは地面から鋭角の光線を描き、かさなりあう光が人々の逃げる街をも照らしてしまっています。空襲のはじまりから、火の海に追われて逃げた避難の様子、一夜開けての燃え尽きた街と黒こげの焼死体、焼け残った橋の欄干に安否を知らせる連絡用の張り紙(でも、「みんな死んでしまった」というような記述がたくさんある)、まさにた記憶に「焼き付いた」光景をというものでしょう。そして、23区と多摩地域それぞれの被災地図。それから焼夷弾がかすった傷跡をのこす被災ピアノ・・・その焼夷弾が不発だったために残っているわけです・・・ピアノの鍵盤にもさわることができました。調律されていないピアノの音は割れていて、ちょっとハープシコードみたいな音色になっているキーもありました。 資料センターで教えていただいて、センターの近くの戦災遺跡・・北砂2丁目の妙久寺にも行きました。慰霊碑もあるのですが、黒く焼けた墓石のお墓や砕けたままになっているお墓がいくつもあるのです。新しい墓石を建てている墓所にも、一部、黒々と焼け焦げた墓石を残しているところもありました。 妙久寺を後にして、バスに乗って両国まででましたが、そのバスで通った道筋はみな空襲で火の海になったところなんですよね。 黙祷をささげます・・・