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エビータの空 ~El cielo del otro lado~

エビータの空 ~El cielo del otro lado~

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2007/04/30
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ついに見てきました!『パラダイスナウ』!!


この映画は、パレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドがイスラエル人プロデューサーと

手を組み、ヨーロッパ各国との共同製作というかたちで作りあげた作品で、

テーマはパレスチナ開放としての自爆攻撃を行う若者の話です。

まじめな感想を語る前に一言言わせてください。


『サイード(カイス・ネシフ)かっこいぃ~!!!!!』目がハート

髭をそった姿は体格も顔も最高~。

カイス・ネシフ♪


さてさて、お話に戻りまして、撮影の舞台は実際、紛争の最中のナブルス。

きれいな丘のある、実際にはイスラエルの占領下の閉塞感いっぱいの町で

この映画の撮影も現実の町で行われています。(実際、空爆も間近であったそうです)


現代史においては侵略者(入植者)であるイスラエルにより、民族浄化

(ethnic cleansing)を受け、絶望と打開策のない中、難民キャンプで暮らすパレスチナ人。

パレスチナの占領の実際をあらためて学ぶと、第2次世界大戦は

まだ終わっていなかったんだとまで感じます。1948年、イギリスによる

パレスチナの委任統治が終了すると同時に、ユダヤ人が「イスラエル」の建国を宣言。

翌日から近隣諸国はイスラエルへの進撃を開始、中東戦争が始まります。

度重なる長年の戦火でイスラエルは圧勝(アメリカによる援護もあり)、都度、

何十万人というパレスチナ人が故郷を奪われ、基本的人権も奪われ難民となって

いるわけです。現在、全世界には約500万人のパレスチナ人がいるといわれてるそうです。

その後平和的解決がないまま今に至り、イギリスによる統治下(1922年)から計算すると、

80年以上、パレスチナは自由を奪われているのです。

その中、パレスチナ抵抗運動の中には対イスラエル武装闘争継続を標榜するハマスなど、

解放実現の為、武装行動が続き、欧米からは「テロ組織」と指定されるものもあるわけです。


映画の中の主人公の重要なミッション「“自爆攻撃(suicide attack)”」

これは日本語では自爆テロと訳されがちで、監督はそれに反論します。

この映画を見た人なら、多かれ少なかれ、これがテロではなく、武力攻撃を受け続け、

歴史的に長年、人権、自由を奪われてきたパレスチナ人の抗戦策として、同時に

宗教確立の為の手段として、占領下という歴史がもたらした悲劇であることが

わかると思います。


監督はこういいます。 『文明には 美しい文明と醜い文明がある』

美しい文明には知識、芸術、音楽、コミュニケーション。

醜い文明は権力、軍隊、武器、車、飛行機。

美しい文明で醜い文明に対抗し、怒りを囁くことで、多くの人が感じてくれる、と。


また、この映画の感想としては、文化はそれだけでフィルターになり得て、

事実を知るのは難しいなあ、というのが個人的には一番の感想です。


たとえば、映画の中で、自爆攻撃に向かう前に、組織幹部の前で、宣誓を行うシーンが

あります。 いわゆるハマスのイメージといったら怒られるかもしれませんが、

シンボリックな旗の前で、銃を抱えた青年が、忠誠と決意と自らの行動の正しさを宣言

するわけです。 これが、彼らの言葉では「殉教」と表現されます。

欧米のメディアの言葉(少なくとも日本の訳語では)「テロ」と表現されます。

若い主人公に思いをよせる外国育ちの女性が「攻撃に攻撃に答えることは、被害者で

あり、加害者にすぎない」というようなことをいい諭しますが、代々、閉塞感と侮辱の

中で運命をきめてきた若者にとって、難民キャンプで残ることより、殉教して、

家族、社会の為に英雄になる道を自ら決意するのです。

これが、現実の話であること、現代も引き続き地球上でおこっていること、

そして、罪のない民間人が命をおとしている有り様かと思うと、息が止まる思いです。

実際、この殉教宣誓のシーンの撮影は、現存する武装勢力組織幹部の同席のもと、

撮影されたそうです。 それを聞くと、このシーンがどこまでニュートラルな事実かは

正直疑わしい気もしますが・・・。


パレスチナに詳しいジャーナリスト、古居みずえさんは言います。

「一番私が共感を得たのは、主人公が普通の人だったということ

そうなんです。監督の描写の巧みさとして、自爆攻撃を行う青年の日常が

本当に普通に見事に表現されています。

自爆攻撃の実行者としての運命が決まった晩、主人公サイードは、

何も家族に気づかれないよう、家族と普通の夕食をとるようにいわれます。

台所では母親が夕食の支度をして、野菜を刻みます。

赤ピーマンのようなものをカットするナイフの音が、乾いたリアルな音を出します。

この光景を見る人の多くが、家庭を彷彿させるようなリアルな音です。

そして、母親は用意できた料理を息子に渡して、「運んで」といいます。

この極々普通のシーンが、この映画の中でとても印象的でした。

母親の表情は確実に、息子の異変を感じ取っているのですが、運命を受け入れるかの

ごとくです。 サイードが自爆攻撃の役を、自らの意思で決断するのと同様に、

この母親にも、何かしら、自発的な沈黙を感じます。単に絶望なのかもしれません。

これはフィルムの外側の私にはわかりきれません。


サイードも母親も、自分の運命を受け入れる以外、他に選択肢がなかっただけなのかも

しれません。逆に、民族としての、また、侮辱された経緯をもつこの一家のプライドなの

かもしれません。難民キャンプの中で抑圧されて生活し、希望も夢も豊かさもない運命の

中に身をおいたら、何を受け入れるべきなのでしょうか。



監督のインタビューの中で

『Destiny(運命、運命を自分で変えていくこと)と

Fate(信仰、そのまま受け入れてしまうこと)』
は異なるものだ、

という言葉があります。 この言葉に対して、パレスチナ難民の意見を聞いてみたいです。

占領された塀の中にいる人間にとって、Destinyとは何なのでしょうか。

攻撃に武力で抗戦するのが誤りであると証明できるのは、教育なのか、

和平アレンジをする第三国なのか、歴史なのか、本当にわからなくなります。

少なくとも自爆攻撃という行動、結果殺人にはかわらないその行動を、

殉教と表現するのには、限定的な信仰と文化の恐ろしさを感じます。

これはどの文化ももつ側面だと思います。文化は普遍であるようであり、特定な信念が

あるからこそ文化ともいえると思います。

他の文化と融和できない、理解しあえない文化は悲しい文明ですね。


そして、どんな社会であろうと、人間はみな閉塞感から抜け出したく、

自己実現を探すという共通の生き様に、プラスの力も攻撃的な力もあるというのを

あらためて知りました。


今、それこそ、会社生活に愚痴ったりすることもある私たちとも、

なんら変わらない人間欲求なのかもしれません。


最後に、監督の言葉、

『全ての人間にとって最後に死ぬということは変えることのできない運命ですが、

しかしその過程は人それぞれで変えることができるのです』


信じることには忍耐と英知が必要なのかもしれませんね。


一人でも多くの人にこの映画を見ていただいて、1日も早く和平が実現することを

強く願います。





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最終更新日  2007/05/02 12:25:12 PM
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