4つ葉プロジェクト

2008/09/01(月)09:45

あいまいさとか、わかりづらさとか。

杉山千佳(子育て環境研究所)(1000)

杉山です。 ようやく仕上げの段階に入ろうとしている今度出す本の 原稿を書きながら、いろいろなことに気づいている。 「育児の孤立化」が進んで「育児不安」になって、「虐待」 につながる。 っていうような表現が、むかし、とても嫌だった。 むかしというのは、育児雑誌ライターをしていた頃。 赤ちゃんを育てている母親に毎日のように会ったり、 電話したりしていた頃だ。 でも、政府の審議会とかに出席するようになって、そうでも 言わないと、伝わらないのだということに気づいた。 (「データってべんりー」  「ビジュアルで見せないとだめなんだ」  「インパクトのある見出しが必要なのねー」みたいな) 1998年、初めて出席した少子化の会議で、わたしは、未熟な、 あいまいな言葉で、一生懸命、今のお母さんたちがいかに 孤独な子育てをしているか、そのしんどさはもはや育児雑誌では 受け止めきれないのだと、説明した。 ほとんどの閣僚さんたちは、 「子育てがつらいはずがない」 と、わたしの言うことを信じたがらなかった。 小泉さんは 「自分たちの時代とは違う。時代が変わった」と、 おっしゃった。 伊吹さん(たぶん)は、 「今日はここに河合さんはおいでにならないけれど、もしおら  れたらなんておっしゃるか聴いてみたい」 と、おっしゃったことを、つい先日、思い出した。 (この会議には、河合隼雄さんも副座長として参加されていて、  残念ながらこの回は欠席だったのだ。わたしは、ほんと、  河合さんに伝えたくて、言うことを考えたんだよねー。  それを、見抜いてらした。  いまごろだけど、  「伊吹さんって、やっぱりすごい人かも・・・」と、思ったり) ・・・・・・・・・・・・・・・ メディアは、「わかりやすさ」にぐぐっとかたむきつつある。 短く、インパクトある言語でと。 方便として使うのなら、まあ、使ってもいいかと思うけど、 それしかできなくなっちゃうのは、やだ。 「それがいい」と信じ込んでしまうのは、キケンなような気が する。 わからなさ、あいまいさを、切り捨ててしまうのは、やばいと 思う。 河合 「やっぱりね、子どもの一人一人を先生が見てないとダメです  ねえ。見えてなかったら言えないわけだから。だからそのとき  に抽象論で、いや文字は知らなくていいんですとか、  それから子どもの教育はとか、そんなことは全然ダメで」 高梨 「たとえば幼児の発達であるとか一人一人の子どもの特性である  という言葉は、教育要領に書いてあるよとか、指導書に書いて  あるよといいながら、あなたにとって一人一人というのは  現実的にどういう子どもか、一人一人の発達を大切にしたいと  いうその発達の中身はどういうことか、その中身のイメージを  大事にしましょうと言うんです」 「私、いつも職員に言うんですが、研修であっても研究であっても、  最終的に私はこう思うとか、こういうことを考えて、こうやって  きたらこういうことに行き当たって、こうわかったと自分の  言葉で語れるようになりましょうね、と。」  結局、言えたり書けたりする基盤が自分のなかにつくれて  こないとね。借りものではダメな感じがするんです。」 『こどもはおもしろい』河合隼雄 講談社+α文庫 河合さんは 「だからね、発達段階という考え方は両刀の剣みたいな  もんですよね。  ある程度こっちが知ってないとこれはもうダメなんだけど、  それに教師がとらわれだしたら、子どもは殺されていくわけ  です」 と、言っておられる。 保育士や子育て支援者は、「子どもの成長発達」を見守る 「子育て環境」を用意しなければならないと、 わたしたちは結構平気で言っちゃうんだけど、 たぶん、机上の学習で、「子どもの発達段階」を学ぶことは それほど難しいことではないと思うけど、 それがわかったからって、 それだけじゃ、「知らない」よりももっと怖いことに なりかねなくて、 使いこなせるようになってこそ、なんだよね。 って。 そういう人を、わたしたちは、「プロ」と呼ぶんだと思う。 ケースの話しかできない保育士さんに、あああーっと思う こともしばしばなんだけど、 そんなケースのエッセンスを抽出して、体系付けるのは、 保育士の作業ではなく、専門家の作業だよ、まったく。 それにしても、ここまであいまいさ、わかりづらさを 認めながら、 対極の世界で、奮闘されていた河合さんという人のことを、 もう一度知りたいなーと、おもうこのごろなのだ。

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