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悠学日記

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岩本 悠

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2011.09.03
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台風の影響で今日予定していた

国際交流×地域貢献・ひとづくり的な講演は延期。

船も全便欠航により、ホテルで雨読。

 

内田樹さんの『日本辺境論』

 

簡単に言うと、 日本・島国=辺境であり、

その辺境人の「学び」は効率が良かった という本であるが、

一部にいたく共感。

 

これを「辺境学習論」として恣意的に咀嚼してまとめてみたい。

 

 

この学習論を一言で言うとすれば、

 

辺境の列島住民は、その地政学的地位ゆえに

「学ぶ力」を選択的に進化させる。 

それは、辺境に生きる人間は、資源の貧しい環境を生き延びるために

「学ぶ」技術、「先駆的に知る能力」を開発せざるを得ないからである。

 

というような論である。

 

 

資源的に閉じられた世界では「ありもの」しか使えない。

いつでもコンビニで買い足したりするようなことはできない。

辺境を常に貫いているルールは、

「手持ちの手段(ここにある資源だけ)でなんとかやりくりする」

ということ。

 

それゆえ、「もの」の汎用性、それが蔵している潜在可能性を見抜き、

「ありもの」の使い回しや活用により未来の需要に備える能力が養われる。

 

しかし、資源が豊かな環境であれば、

そのような予備的な能力は必ずしも要求されない。

目の前にあるものを気分次第で取る。不要だと思えば捨てる。

捨てたものが有用であることに後から気づけば、また次の機会に拾う。

資源や機会が豊かにあるというのはそういうことである。

 

 

これらをより説明すると・・・

 

 

人間には「どうしてよいかわからないときに、どうしてよいかわかる」能力が

潜在的に備わっています。

その能力は資源が潤沢で安全な環境では発達しない。

 

「どうしてよいかわからない」ときにでも、

「どうすればいいか」を訊きに行く人がいたり、

必要なものを買い足しにいけるなら、

先駆的に知る必要はない。

 

けれども、資源が乏しい環境や、失敗したときに

「リセット」することが許されないタイトな環境においては、

「どうしていいかわからないときにも適切にふるまう」ことが

生き延びるために必須のものになる。

 

 

たとえば・・・

 

 

いきなりの大地震や想定外の状況において、

「こういうときはこうふるまいなさい」という指示は存在しない。

真に危機的な状況というのは、「どうふるまっていいか」についての

指針やそれを指示するマニュアルがない状況のことである。

 

けれども、それを生き延びなければならない。

そのためには、「清水の舞台から飛び降りる」ような決断をしなければならないのだが、

そのためには、「セーフティネットが張ってある場所」めざして

飛び降りることができなければならない。

もちろん、舞台の上からはセーフティネットは見えない。

見えないけれど、見当をつけて「このへん」と飛び降りることのできる人間だけが、

生き延びることができる。

 

針の穴ほどの生き延びるチャンスを「先駆的に知っている」ことがどれほど死活的であるか、

私たちはあまりに豊かで安全な場所で暮らすことで、すっかり忘れてしまうのである。

 

 

 

~日本人と学び~

 

 

日本における辺境性の喪失が

子どもたちの学びに大きな影響を与えているという。

  

現代の子どもたちが学ぶ力を失っているのは、

彼らの「先駆的に知る力」が破壊され尽くしたからである。

 

学び始める前の段階で、学び終えたときに得られる知識や技術や

それがもたらす利得についての一覧的な情報開示を要求する子どもたち

(「それを勉強すると、どんないいことがあるんですか?」と訊く

「賢い消費者」的な子どもたち)は、

「先駆的な知」というものがあることを知らない。

 

 彼らは「計画に基づいて」学ぶことを求めている。

 自分が実現すべき目的のために有用な知識や情報だけを獲得し、

それとは関係のないものには見向きもしない。

 

おそらく本人はきわめて効率の良い、費用対効果の高い学び方を

していると思っているのだろう。

だが、あらかじめ下絵を描いた計画に基づいて学ぼうとするものは、

「先駆的に知る」力を自分自身の手で殺していることに気づいていない。

 

「先駆的に知る力」とはまさしく「生きる力」のことである。

 

 

そして、現代の日本に警鐘を鳴らす。

 

 

この力は資源の乏しい環境の中で生き延びるために不可欠な能力です。

この能力を私たち列島住民もまた必須の資質として選択的に開発してきました。

 

狭隘で資源に乏しいこの島国が大国強国に伍して生き延びるためには

「学び」力を最大化する以外になかった。

「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。

ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。

ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。

現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、

つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。

 

 

 

ちなみに、内田さんは 学びの成立について、

 

「すでに持っていること」を覚知することによってではなく、

「いまだ持っていないこと」についての切迫が学びを起動する。

先駆性とはそのことです。

 

と言っているが、これと、海士町が最近宣言した

『ないものはない』宣言は、

相反するようで、相通じているような気もする。

 

 

 

最後に、内田さんは辺境論を語るにあたり

構造主義の始祖であり、この隠岐島前にも訪れた

文化人類学の巨匠レヴィ=ストロースを引用している。

 

 

レヴィ=ストロースは、

「ありあわせのもの」しかない限定された資源のうちで生活している

野生の(辺境の)人々を指して「ブリコルール」という言葉を使った。

 

「ブリコルール」とは、

そこにあるありあわせの道具とありあわせの材料で

器用に新しいものを創造する人のこと。

 

そして、その野生の人・辺境人の持つ"野生の思考"は

答えやマニュアルの無い中で、ありあわせの知識や資源を元に

手探りで目的を達成していくというものであり、

計画され、無駄なく、論理的、効率的にことを成す

"栽培された(工業化され効率化された)思考"と対極にあるもの

 

だという。

 

現代の学校が、"栽培された思考"を鍛える効率的な場だとしたら、

逆に、こうした離島のような非効率な環境は、

"野生の思考"が鍛えられる絶好の場と捉えていくべきなのだろう。

 

"野生の思考"と"栽培された思考"の両方が鍛えられるということが、

「離島」の「学校」で学ぶことのアドバンテージだと、

レヴィ=ストロース氏も内田樹さんも言っているのだろうか・・・

 

いや、そこまでは言っていないか。

 

 






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Last updated  2012.01.07 21:18:11
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