久里浜
と、いうわけで、本日は「ヤボ用」本番でした。思いのほか時間を要して、他の用事を済ませた時点で午後6時を回っていました。諦め半分で久里浜へと向かいましたが、やはり時間的にはノビノビと撮れる感じではありませんでした。Pentax K-xSigma 18-200mm F3.5-6.3 DC Macro「神業」に対する語として、「人間業」という言葉があります。英語だと、この「人間業」をhuman craftと言うことが多いと思います。これは、神業に対し、人間の行いが如何に不完全であるかを喩えた言葉であり、人知の限界、そしてそれをはるかに超える神の御業の完全さというものが、古来から知られていたことを表しています。「神」というと、オーディエンスが限られてしまう可能性もありますので、より人間的な言葉にすると、これは「自然の摂理」というと分かりやすいと思います。人間、誰もがエゴというものを持っていて、「こうしたい」「こうするべきだ」という、自分自身の判断に基づき、それに従って生活しています。そうしたエゴを実現するため、腕力、戦力、財力、知力、忍耐力など、持てる「力」の全てを捧げて、当人にとって真っ当かつ遠大な何かを実現しようとします。しかしその結果は飽くまでも「人間業」であり、たとえそれを達成出来た場合であっても、「人間業」の結末がどうなるか、というのは、最終的には「自然の摂理」によって、その者に対する因果が現れるもので、その因果からは何人たりとも逃れることができません。例えばノーベルはダイナマイトの発明という偉業を成し遂げましたが、不幸にもこれが兵器として用いられ、結果としてノーベルの偉業は「自然の摂理」により、無数の人命を奪うことになり、ノーベルは「死の商人」として悪名を売ることになってしまいました。これがまさに、ノーベル自身もどうすることも出来ず、ただ単に受け容れるよりほか無い「自然の摂理」なわけです。そして誕生したのが、そうした結末を後悔したノーベル自身の遺言による「ノーベル賞」ですよね。Pentax K-xSigma 18-200mm F3.5-6.3 DC MacroJudges 4And the children of Israel cried unto the LORD: for he had nine hundred chariots of iron; and twenty years he mightily oppressed the children of Israel. 彼は鉄の戦車九百両をもち、二十年の間イスラエルの人々を激しくしえたげたので、イスラエルの人々は主に向かって呼ばわった。And she said, I will surely go with thee: notwithstanding the journey that thou takest shall not be for thine honour; for the LORD shall sell Sisera into the hand of a woman. And Deborah arose, and went with Barak to Kedesh. デボラは言った、「必ずあなたと一緒に行きます。しかしあなたは今行く道では誉を得ないでしょう。主はシセラを女の手にわたされるからです」。デボラは立ってバラクと一緒にケデシに行った。And the LORD discomfited Sisera, and all his chariots, and all his host, with the edge of the sword before Barak; so that Sisera lighted down off his chariot, and fled away on his feet.主はつるぎをもってシセラとすべての戦車および軍勢をことごとくバラクの前に撃ち敗られたので、シセラは戦車から飛びおり、徒歩で逃げ去った。Then Jael Heber’s wife took a nail of the tent, and took an hammer in her hand, and went softly unto him, and smote the nail into his temples, and fastened it into the ground: for he was fast asleep and weary. So he died.しかし彼が疲れて熟睡したとき、ヘベルの妻ヤエルは天幕のくぎを取り、手に槌を携えて彼に忍び寄り、こめかみにくぎを打ち込んで地に刺し通したので、彼は息絶えて死んだ。「自然の摂理」とは、まさにこのテントの釘のようなもので、間違いなく人間を突き刺すものだと感じます。「人間業」であれば、その不完全さに目ざとくつけこんで、自分の思うような結果が得られることもあるかもしれませんがね。しかし善意・悪意の如何を問わず、何らかの行動を起こし、「自然の摂理」により導かれる結末というのは、まさにこのテントの釘のように、誰が何をする必要もなく、必然的にその者を射止め、否応なしにその行動の結末と対峙させられ、その責任を取らなければならなくなるのではないかと思います。