渋江抽斎、谷中に眠る
2021/09/28/火曜日/日差しは強い兄に勧められ何年か前に森鴎外『渋江抽斎』を読み、森鴎外への印象が幾分変わり、更にその後年「森鴎外記念館」を千駄木に訪ね、もっと変化した。しかし端緒は渋江抽斎だ。谷中の 光照山感應寺にそのお墓があると知り、立ち寄った。お寺は山門過ぎると、広くない寺領の左半分がいきなり、しかもぎっちりと墓石の林立する墓地となっている。今どきのお寺の経営の厳しさが何と無し伝わる。先般墓探しで苦慮したので、寺務所で尋ねたら親切に案内くださった。お墓そのものはシンプルに「渋江家之墓」とあるのみ、そんな所も好感大。何しろあの、五百さんあっての抽斎さんなんだから。左には彼の生前の功績を記す墓碑銘があったが、悲しいかな無教養な私はこのような碑文を前にしてはほぼ文盲だ。何とか読めるのは大文字の「抽斎渋江君墓碑銘」くらい。文字デザインがイカす。碑文の中身を是非知りたい。〈岩波ではなく、兄から送られたこの版で読んだ。私は武鑑なるものに無知であったが鴎外は歴史小説資料、考証としてこれらを漁す内に蔵書印に偶々同じ名を認める。その印に弘前医官とあり、故をもって江戸期に同業同好の志を見出し、氏への敬慕高じて彼方此方訪ね文する鴎外の、医官定年間際の瑞々しさ。渋江抽斎を主軸とした幕末から明治へ移行する一族の年代記へと形成される。当時ですら探索せねば判然とせぬ人物を通し、読者は明治の文豪鴎外と共に平成に生きる我らが何を失したか鮮やかとなる。最後の伴侶五百の姿勢は、これ鑑と為したく候。〉〈私的読書メーターより〉