松江 お社めぐり ❺ 熊野大社 後
2025/01/29/水曜日/よく乾く春めいて12/30 松江市◼️出雲口伝を中心に出雲国造祖先は出雲口伝では、徐福の斥候として 一足先に出雲王家に入り込んだホヒ、タケヒナドリ親子ともされている。 何としても倭国に遠祖のユダヤ王国を造りたい徐福の命を受けて、出雲王国指導者の大名持ヤチホコ王と8代少名彦コトシロヌシ二人をホヒらは罠にかけ枯死させた。 二人の指導者が同時に亡くなるということは、 出雲王家始まっていらいの大事件だった。和名をホアカリと名乗る徐福には、宗像三姉妹の高貴な血筋を引くヤチホコ王の娘、高照姫を嫁がせ、既に五十猛イソタケという息子もいたのである。出雲王家からすれば身内。高照姫は伴侶に父王を殺され、怒りのあまり幼子を邸に残し実家に戻ってしまった。 ホヒらが捕まえられたことを知ったホアカリは息子を残し、船で秦に逃げ帰ったという。これを知った人びとはホアカリを鬼のような人と言い合い、彼が住んだ村を鬼村と呼んだという。 ごく一般的な日本人の心情とは馴染まない事件は最近では数々あるが、これはそのハシリ?勝つ奴が絶対、みたいなモンゴル関取の相撲には、美学が感じられないみたいな心情。とは言っても、そんなDNAも現在の私たち日本人を構成しているし、その後半島から大挙渡来したヒボコ集団もまた血肉の一部には確実にあるのだろう。日本人ってなんだろう。さて、口伝によれば、高照姫は姪に当たる大家姫に五十猛イソタケの世話を頼んだ。大家姫はクナトノ神のサイノカミ信仰を彼に伝えたというから、五十猛は出雲の神々を奉斎したことになる。 彼はやがて大年彦と名乗り、周辺に住むハタ族海童もその信仰に従うようになる。しかし彼らハタ族は出雲の人から嫌われ、大年彦はみなを引き連れ丹波国に移住した。 指導者となった大年彦は香語山と名を改め、大家姫を妃に迎え、二人は徐福が大陸から携えた樹木の種、竹や梅を植えたという。彼らの息子タカクラジは後の移住先で更に植林して木の国となした。これが紀伊国の初めだそうだ。 口伝からは紀伊半島の熊野神社に先立って、この熊野大社があったというようにもとれる。そしてなんと3度目、徐福は渡来する。この執念!資本を提供する秦の始皇帝も一体どうした訳か。3度目に上陸したのは北九州である。彼は筑紫では饒速日ニギハヤヒと名乗った。京都にいるときゃ忍と名乗ったのー神戸じゃ渚♬どうやってやんごとなき姉妹に取りいったか。イネと漢字と構造船と道教と武力か。ニギハヤヒは宗像三姉妹の市杵島姫を妃にした。これが事実なら謀略家としての徐福の奸智の恐ろしさよ。そんな権謀術数とは無縁で生きて来た縄文人的日本人が気の毒すぎる。二人の娘、穂屋姫を后に迎えたのが、なんとなんと丹波のカゴヤマ即ち五十猛だなのだ。 この母親違いの兄弟夫婦の息子がヤマト政権初代王の村雲だという。しかし彼はあくまで出雲王家だ。徐福の血を引く二つの氏。 カゴヤマはアマベ氏、筑紫ではモノノベ氏 となっていく。アマベが母系的なのに対してモノノベは父系的な印象出雲連合政権は二世紀半ば最初のモノノベ東征を受け何とか押し返すもヤマトは不安定化する。おそらく卑弥呼に比定されるモモソ姫の平和統治後、第二次モノノベ東征で出雲王国は閉じられた。長いパクス出雲王国時代が終焉し、倭国は乱れた。まさにその500年後に、出雲国造の国譲りが中央集権国家によって為された。奪ったものは奪われるものとなった。 その史実を記紀は巧みに神話に置き換えた。 当時の、今いまの世を古代に重ねるようにして。ところで徐福は中国で発掘が進み、偉人扱いの博物館が観光名所になっているらしい。彼は後進国日本に稲作を伝え、薬術をもたらし、構造船の技術を伝え、山を緑にして貧しい日本人を豊かにした、というサクセスストーリー。そんな包装紙に騙されて嬉しがるのではなく、事実が何だったのか学ぶ責任が子孫にはある。こんな道なら登って行けるが、途中柵も壊れた道なき道はあまりに足場が悪く、上宮遥拝所は諦めた。出雲国造家には是非とも整備をお願いしたい。そこまで行けば東出雲王家の王らがその下に埋められている磐座が臨めるはずなのだが。富家の本拠地、神魂神社からはかつては南にこの山が眺められたそうだ。岩清水が明見水と呼ばれて、昔から眼病に効くと言われる。眼病を癒す水奇譚は各地にあるが、こちらの水は目の曇りを取り払うためかもしれない。この水で目を洗い、出雲王家の磐座に手を合わせるのであれば。