魅力的な下風呂温泉 東北旅2025
2025/06/28/金曜日/晴れと曇りと東北旅の1日目宿泊は、恐山から車で45分ほど、細いヘアピンカーブを下りながら、太平洋側に降りて下風呂温泉へ。なぜこの土地か。格別な理由はないのだけれど、小さな町に3つの源泉があると知り、レンタカーを返す八戸からは距離があるのだが、ここに決めたのだ。ところが温泉宿はどこも予約満室。結局温泉無しの民宿に泊まることに。しかしこれも正解だった。海峡の湯なる、清潔で新しい、海の見える日帰り温泉の入湯券のサービスあり。宿からは徒歩2分ほど。目と鼻の先だ。サンダル借りて傘差して♬源泉掛け流しのあまりの熱さ←大湯は46度超え-_-bびっくりしていると、本日はいつもより熱いらしく、透明なはずの新湯が大湯のように白濁しているとか。自然相手なのでねえ、と会話も弾む。津軽の人がこの湯に浸かると熱さに呆れるので、あちらはぬるい温泉なのだろう、とか。元々古い湯治場だったのだとか。さっぱりして宿に戻ると夕ご飯。極楽だ〜いや、極楽はご当地のウニであった。そんなに沢山のウニを食べたわけではないけれど、今まで食べた中では最高に美味しいウニだった!気仙沼や釧路の魚市場で開けてもらったウニよりも極上。驚きのフレッシュなねっとり甘さは鶏卵とご飯とワサビのハーモニーゆえか⁈↑なんとウニ・アワビの二色丼( ;∀;)いつかは行きたい、ゆかい村花火翌朝は幻の大間鉄道線路予定地にある足湯へこれがまあ気持ちの良いこと。潮風と林に囲まれて丁度良い湯加減に足を浸せば、なんと!我が敬愛の菅江真澄候もこの地に親しみをお持ちだったのだ。菅江 真澄 1754 -1829秋田県立博物館所蔵本名は白井英二。三河に生まれ、本草と国学を学ぶが、30の歳に旅発ち、北海道へ渡ったあと、南部・津軽・秋田と歩く。地誌を編む旅の途上、角館で病歿。享年、76歳。人生の過半を旅に過ごし、その旅を日記に綴った。その土地の風土・慣習を、その土地の人びとの見方に沿って書き留め、のちに柳田國男に「民俗学の祖(おや)」と評された。寛政4年10月(1792年)に奥戸湊(大間町)に上陸したのち、寛政7年3月(1795年)に津軽へ旅立つまでの2年半を下北で過ごし、『牧の冬枯れ」・『蝦夷が歳」(未発見)・「奥の浦々』・『牧の朝露』。『尾駮の牧』・『奥の冬籠』・『千引の石』(未発見)・『牧の夏草」(未発見)・『奥の手風俗」を書いた。さて、幻の大間鉄道とは大正11年(1922)公布の改正鉄道敷設法で大湊線(野辺地駅までの50km)の途中駅である下北駅から本州最北の大間町まで(49.7km)としてあげられたのが大間鉄道の始まりとなった。第1期工事分の大畑線(下北から大畑までの18km。)が昭和⬜︎大田線として開業し、引き続き大間までの工事が続けられ当初、下北半島の林産資源や水産資源の開発。又、本州と北海最短路線として期待された鉄道であったが、太平洋戦争に突入し、太選の事事施設の為の重要路線として完成が急がれる事となった。⬜︎・本間間29kmのうち⬜︎までの16kmの基礎工事が完成した⬜︎948)2月突として工事が中止となり、数十年の間放置され現在に至っている。と碑文から少し読み取れる。この足湯に10分弱ほど浸かって足をタオルで拭うと、ポロポロと垢のようにヒフ?がとれる。昨晩温泉でよく洗ったのに。軽石効果?↑坂口恭平してる小屋さて、八戸のレンタカーに車を返し、やまびこで新青森へ。そこから弘南バスで五所川原へ、そして津軽鉄道で金木へ。しかし!恐ろしい真実を宿の女将さんから聞く。どうして八戸?下北駅の方が近くてはるかに便利なのに?どうしても新幹線を利用したいのなら、七戸駅ならまだ理解できるのだけど…事前の計画の杜撰さよ!下北駅にも当然レンタカー社は存在するのだった!下北半島から津軽半島へ移動のレンタカー利用の場合、下北駅経由がベストである。因みに恐山も下風呂温泉もバス便がある。事を後に知った。この教訓を得て私たちは、来る時に遭遇した事故渋滞が起きないように、スムーズなガソリン補填ができるように、心から祈った。万事悪く承知するクセのツレは予防線を張るように、まぁ津軽は次でもいいや。最悪、弘前で泊まって民謡酒場、ともそもそ言うのである。はあ?弱気を叱咤激励、ベストな行路、ベストなガソリンスタンドを何とか見出し、そして奇跡のようにやまびこに乗り込んだのであった( ;∀;)