|
テーマ:読書(8516)
カテゴリ:本日読了
2024/09/13/金曜日/きょうも酷暑
〈DATA〉 出版社 編集工房ノア 著者 足立巻一 1985年10月10日 ノア叢書 8 〈私的読書メーター〉〈ヤチマタとは道がいくつにも別れた所をいう、そうだ。春庭の評伝物語『やちまた』を書いた足立巻一によるエッセイ。この世におぎゃあと生まれやがて晩年へ。戦争で九死に一生を得た体験。生涯学びを深めた詩歌。その縁で出会った沢山の人。そのエピソードの一つ一つは敬愛する人びとをいきいきと蘇らせると同時に著者その人をも照らす。熊野純彦『本居宣長』で、この西洋哲学者は高校生のとき夢中で『やちまた』を読んだと紹介があり関心沸く。その地ならしのつもりの本書で吉川幸次郎にぶつかる。まさに「読書やちまた」である。読書無窮。〉 ご自分の来歴が述べられている中で印象に残るのが 巻一の祖父の件。 巻一の生後間も無く亡くなった父、里から再婚を迫られた母が去ったあと、父方祖父母に育てられるのだが、その祖父が桁外れな漢学者であった。 生活者として破綻していたが、豊かな愛情を巻一に与え、祖父母はあっさり虚しくなる。 母の実家に引き取られやがて関西学院中学に進学する頃、詩の世界に足を踏み込んだ。国語に対する感受性と中学で出会った教師への敬慕から、官立の特殊な学校、神宮皇學館へ進学した。 この経歴、過程があってこその本居宣長であり、春庭であった。 巻一は戦後しばらく勤務した新聞社を辞め、北海道を放浪した。その折たまたま羅臼からの連絡船で出会った男のエピソードは、もっともわたしの心を打った。 「その人は筋骨質の頑丈な体格を持ち、半袖から出た腕は太くて赤く日焼けしていたが、目はやさしかったし、話しぶりもおだやかだった。 『何か急用なんですか?』 『え、さっきの連絡で母が病気だと知ったもんで、急いで支度しました。』 『どちらへ』 『秋田です』 『そんな遠くからこちらへ?』 『ここの昆布採りには秋田の者が多いんです。大抵が東北です。』 わたしには意外な話だった。一種の季節労働者らしかった。 『では古くから知床へ?』 『いいえ、戦争がすんでからです。』 『それまではどちらで?』 『郷里の海でずっーと漁師をしておりました』 『昆布のほうが儲けがいいんですか?』 『ぼくの場合はわけがあるんです』 『といいますと?』 『兵隊にとられて、あげくはシベリアに送られて帰ってみると、僕の墓が建ったりました』 『…』 『妻は弟の嫁になって子を産んどりました』 わたしは悪いことを聞いてしまったと悔いた。が、その人は淡々と語り続けるのだった。 『それで郷里からなるだけ遠く離れようと思うて、ここへ来たんです。昆布採りが終わればニシン船に乗ります。郷里には帰ったことがありません。帰るとみんなに悪いですからね。でも、今度はどうしても帰らんと…』 それからは話が途切れた。その素朴きわまる言葉はわたしにこたえた。」 日本人とはどんなひとであったか。 それを見る思いだ。 さて。 この本の私にとっての珠玉は 『うひ山ぶみ』逍遥 の段 宣長が35年の歳月を掛けた大業『古事記伝』の直後、師弟に求められ軽やかに仕上げた学問心得に関する足立氏の巡らせる思い。 自身、士農工商の最下位であるところの商人の出自である宣長は、町民、庶子への学問を 神道・有職・国史・和歌 の4種に分け、好みの道を選べば良いと諭す。 およそ当時の寺子屋が儒教に基づいた読み書きそろばんであった、その上でのことではあろうが。 言葉の用例をできるだけ沢山集めてそこから語義や法則を導いた宣長の科学的機能的アプローチは、当時世界的な言語学研究の最先端に並ぶものであったという。 そしてその根底に、言葉と史実と精神は相かなうものという思想があるとする。 宣長は、「言(コトバ)と事(ワザ)と心(ココロ)と、 そのさま大抵相かなひて」 と述べ、心の賢い人はことばも行為もそれに応じて賢く、心のつたない人はその反対だと説明する。 さらに、言葉は和歌に伝わり、事実は史に伝わっているが、その史も言葉で書いたのだから、 「言の外ならず」と断ずる、という。 これら論文を書いた若い頃の足立氏は 言=事=心を説いた件の深い意味に気づいたのはずっと後になって、吉川幸次郎先生に教えられたことによるものと述べる。 吉川幸次郎博士の『本居宣長ー世界的日本人ー』で中国研究の方法論が宣長と全く同じであったことに勇気を得た一方、自分よりずっと早くその業を成し遂げた宣長に脱帽した、という一文に接した足立氏はさらに吉川先生の、 事と言とが心を媒介としている、心を知る最も端的な手がかりは言にある 言を重視するのは東洋の学問の伝統的な精神で、様々な点で差異のある日中でも、その一点において一致する 言語そのものが事実なのである を紹介する。 これは深い、深すぎる。 私なんぞには容易に掴みきれない。 そこに啐啄を覚えるけれど。 例えば「やま」と発すればこそ山が立ち現れる、 現出するような。 やま、といい、みず、という。 その言の葉。さやさやと。 しかしここで心はいかに働いているのか。 発するものと現れるものの卵の殻の如きものか。 『やちまた』を読むための本書は、なんと 本居宣長『うひ山ぶみ』も 吉川幸次郎『本居宣長』を運んでくるのだ。 時雨ふり肩寒しなど小言いひ「初の山踏」 読みたどるかな 前川佐美雄 なるほど。 言葉の源流へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.13 11:41:29
コメント(0) | コメントを書く
[本日読了] カテゴリの最新記事
|