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2025.01.28
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カテゴリ:旅日記
2025/01/28/火曜日/本当に大寒?



12/30  ホテルの部屋で、読みかけの本を読むうちにどんどん熊野神社が近づく。


バス路線などこまめに調べてみると、午前早くに出れば、午後から松江市内散策もできそうである。




一畑バスの終点車庫まで長く揺られる。そこから
コミュニティバスに乗れる。
はずだった。
( ;∀;)


コミュニティバスはそこにいるのに!待合室は
がらんとして人の気配がない。
壁に張り紙、お正月前後10日ばかり運休ですと!


張り紙が多過ぎて、しばらくその案件を理解するのに手間取り、飲み込めないままに呆然、うろうろの私に親切な若い娘さんがケアマネの如く寄り添ってくださる!後光が彼女から漏れまする。


結局タクシーのお世話になって熊野大社へ

帰りのバス時刻もチェックの上、迎車手配せねばならぬ。基本が歩きの私は長い距離を一人でタクシーに乗るのは腰が浮く。といっても都合15分くらい。
貧乏性なのである。


しかし。ともかくもそこの場所に身をおく。
何らかを感得するにはそれしか術がない。


◼️熊野大社




私は出雲のことを何も知らなかった。

大国主のことも古事記の中のエピソードを読んだくらい。神話の普遍性は各民族の意識の古層に、くらいの遠巻きの眺めだった。


中でも古事記全体の中で、大国主命の話や海幸山幸の話などは元々の伊弉諾伊奘冉の話に繋がり辛く、天照大神が国譲りを迫る所は何だかイスラエルとパレスチナみたいで、受入れ難いのだねえ。




そんな長年のモヤモヤ

前日に大庭の土地を歩き、今日、山深い熊野大社に来てみれば、より古い部族の租神の息遣いが意宇川の上手の方でいささか感じられるではないか。





この大社は出雲大社よりも古い創建だという。

中央集権国家の体裁に記紀が著されたが、当時の出雲国造の訴えを退け、出雲より熊野の社格を上とした古代からの認識を留めたが、いつの間にかそれは転倒してしまった。


転倒といえば、主祭神も出雲族のクナト神ではなく、出雲国造の主祭神、素戔嗚にすり替えられた。


クナト→クマノ
響きは近しい。


出雲王族による連合政権が出雲や畿内、ヤマトに緩やかに敷かれていた頃、出雲王族の暦で神事が行われていた名残は↓年2回の大祓である。

出雲王国では一年を2回に分けて、二年と考えていたらしい。



社務所には現出雲国造の著作冊子がいくつか販売されており、入門のような一冊を求めた。


ところがあら不思議。その本とご由緒書が、帰宅後忽然と消えていた。なんちゃって。
何処かに忘れて失くしてしまったってコト(/ _ ; )

中を1ページも読んでないのに!



この神社で気になったのが本殿よりもこちら↓




すみません。
奉安の神器も撮影してしまいました。



境内中、こちらが一番厳かな印象をもつ。





亀太夫神事!これを後日出雲の博物館でその映像を見たが、どう考えても出雲国造いじめなのである。


出雲王家はお前の裏切りを忘れてはいない、とでもいうような勢いだ。
よほど酷いことをしでかしたのであろうなぁ。



出雲大社、との呼び習わしは明治に入ってからのことらしく、それまでは杵筑大社きづきのおおやしろと呼ばれ、地元でも馴染んでいたそうだ。





出雲国造はそれまで住んでいた大庭の地  (←古代そこは出雲東王家の邸のある土地柄)  から現在の出雲へと中央政権によって、おそらく記紀編纂前後に国司職能も奪われ、いわば左遷されて神主としての奉祝のみを担わされた。という。


これは一つの国譲りであって、国を譲る代わりに
大社を築かせたとすれば、出雲大社創建はときの藤原政権と出雲国造の間の交渉事の結果、ということになる。


それを大国主の国譲りとして神話化するとは、当時の真実を未だ身近に知る豪族らはどう感じたろうか


先年発掘された奈良時代の出雲大社の心柱などの遺構はそれを証する。

モデルとしたのは東出雲王家の神魂神社造り。





出雲国造は新たに襲跡するときには一年潔斎をして出雲の神々を奉り、朝廷に赴いて帝を寿いだ。

これはそれはそれは命を縮めるようなは作業だったことを博物館の映像で知った。

それでも尚、代々受け継がれている神パワー


《出雲国造神賀詞(かむよごと)》にみられるように,出雲国内186社の神々の総意を代表するかたちをとり,大穴持命(おおなもちのみこと)の和魂(にぎたま)を三輪山・葛城山・飛鳥おのおのの神奈備と雲梯(うなて)神社の地に〈皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神〉として鎮座させ,祝いの神宝の品々を献上するというかたちをとっていた。


『世界大百科事典』より






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最終更新日  2025.01.28 16:29:16
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