2025/03/04/火曜日/雪少し、昨日は都心で雪

〈DATA〉
出版社 岩波書店
著者 谷川健一
1999年6月21日 第1刷印刷
岩波新書(新赤版)618
〈私的読書メーター〉〈柳田、折口に批判的とされた著者だが、本作は両学者の説を積極的に抽出し論考する。柳田「あるきみこ」説ではヤマト姫がアマテラスの御杖(憑依者)として伊勢に辿り着くまでの漂流に重ねる。とある歴史本でこれは豪族たちの動きの偵察と読んだが、氏の神々に対する郷愁に近い実感を覚えるばかりか、彼こそまるであるきみこである。列島を隈なく神々の足跡を求める心は文末に「人間は人間だけではやってゆけない。人間には神が要る。その神とは教義も経典も教会も教祖も不要な神であるが、その神の具現である自然が要る」の一文に凝縮している。〉
沖縄は南の島
しかしながら沖縄にも北と南はある。
初めての沖縄旅は「南」と首里の古い王都を巡った。
沖縄では日米太平洋戦争の記憶は生々しく、当地の人ですら足が遠のくと聞く。
私もガマを覗いたとき異様な体験をもった。
鈍感な私ですらそうなのだから、肉親を亡くした人においておや
そんな現状を何とかしようとある人が、亡き人に花を添えるように、美し庭を築いてカフェを始めた。
最大の御嶽も南にある。
そんな地域だ。
先年、紀伊國屋ホールで久高島のイザイホーを観た。
神女となった、祖母、母、妻、姉に一族の男性らは心から敬意を払い、拝む。
それだけの威厳を神女となった女たちは備えている。
著者は、私が観たイザイホーの現場にいたという。
それ以降イザイホーは途絶えている。
イザイホー、イザナギ、イザナミ
いざ、いざ。
政治を司る男王、キ。
祀りを司る神女、ミ。
両者によるオオキミの統治、殊に人民は神に仕え、
神の言葉を託されるヒメミコを崇拝したという。
青銅が登場して後は、マツリゴトはすっかり男だけのものになった大陸の歴史と異なり、和国ではキミのマツリゴトが機能していた。
出雲王国では王は役職名である大己貴命、副王は事代主と称した。事代主とは、ことば=法=言霊=うた、でマツリゴトを為すもの、と出雲口伝にあった。
キとミの統治を解体したのが九州からの物部東征であろう。馬も金属も神事ではなく戦いの武器となった。
和国擾乱。それでも鎮めたのは(大神神社の)ヒミコ(ヒメミコ)、と三国志の魏志倭人伝にある。
口伝によれば、それはタタライスズ姫で、忙殺された大己貴命の娘であった。
男中心社会の大陸スタンダードに合わせて和国も変容した。斎宮という形式だけが残り、それも形骸化してはや1300年。それは短いのか長いのか。
思うに、日本の神話は、民族ルーツの異なる者らの創世神話と時代が降りて渡来したグループの宗教と、初期の王国を確立した出雲王族の歴史が混在した創作物語、といえるかもしれない。
谷川健一氏の著作は出雲に関しての紙数が少ないのが残念だ。ご出身が九州であることが関係しているのだろうか。
琉球の信仰への共感、関心をもう少し出雲に割いて頂けたら、出雲の信仰に新しい考察が加えられたのでは、と残念に思う。
そんな中にあって、出雲国造の火継式が短く、かつ端的に描かれている。
出雲国造が亡くなると、その死は公表されず、まるで生きているように衣冠を正しくして座らせ、その前には膳部を奉る。
この件は浅学故に本書で初めて知った。
熊野大社まで出雲の地から夜を日に継いで出掛け、
火鑽の儀式を執り行うことは、出雲古代博物館で詳しく紹介してある。
その火で国造自ら炊いた御飯を神前に備え、歯固めの儀式を行い、神火相続の終了が公表される。
以降その火を絶やさず、国造のみがその火で煮炊きした食事を摂るのだという。
亡くなった国造は赤牛にくくりつけて水葬する。
出雲王族の場合は鳥葬、風葬であり、それは久高島でもごく最近まで継承された。
葬送の形式を見れば民族宗教の違いが克明だ。