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本と歩くのだ

2021.09.29
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カテゴリ:本と歩くのだ
2021/09/28/火曜日/日差しは強い

兄に勧められ何年か前に森鴎外『渋江抽斎』を読み、森鴎外への印象が幾分変わり、更にその後年「森鴎外記念館」を千駄木に訪ね、もっと変化した。



しかし端緒は渋江抽斎だ。谷中の 光照山感應寺にそのお墓があると知り、立ち寄った。

お寺は山門過ぎると、広くない寺領の左半分がいきなり、しかもぎっちりと墓石の林立する墓地となっている。今どきのお寺の経営の厳しさが何と無し伝わる。
先般墓探しで苦慮したので、寺務所で尋ねたら親切に案内くださった。



お墓そのものはシンプルに「渋江家之墓」とあるのみ、そんな所も好感大。何しろあの、五百さんあっての抽斎さんなんだから。

左には彼の生前の功績を記す墓碑銘があったが、悲しいかな無教養な私はこのような碑文を前にしてはほぼ文盲だ。何とか読めるのは大文字の「抽斎渋江君墓碑銘」くらい。文字デザインがイカす。碑文の中身を是非知りたい。

〈岩波ではなく、兄から送られたこの版で読んだ。私は武鑑なるものに無知であったが鴎外は歴史小説資料、考証としてこれらを漁す内に蔵書印に偶々同じ名を認める。その印に弘前医官とあり、故をもって江戸期に同業同好の志を見出し、氏への敬慕高じて彼方此方訪ね文する鴎外の、医官定年間際の瑞々しさ。渋江抽斎を主軸とした幕末から明治へ移行する一族の年代記へと形成される。当時ですら探索せねば判然とせぬ人物を通し、読者は明治の文豪鴎外と共に平成に生きる我らが何を失したか鮮やかとなる。最後の伴侶五百の姿勢は、これ鑑と為したく候。〉〈私的読書メーターより〉






最終更新日  2021.09.29 21:41:19
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2021.09.28
カテゴリ:本と歩くのだ
2021/09/28/火曜日/曇り時に晴

ただ今 幸田露伴『五重塔』を読書中
その雰囲気を味わおうとひぐらしの里の天王寺を訪ねた。



『五重塔』には感応寺の寺名で出て来る日蓮宗のお寺。しかし碑文にあるように、1698年、幕府の命で天台宗に変更された。しかしこの時はまだ感応寺の名のままだった。

後、日蓮宗への帰宗を願い出たが許されず、その代案に雑司ヶ谷感応寺が新たに1836年に開山された。
そのときに今に至る天王寺と改名された。

ところで、話はそれるが谷中にはもう一つ別の感應寺(應は応の古い字)があり、ややこしい。山門に神田山とあるが寺名は、光照山 感應寺とは?元々は神田にあったお寺のようでそのご縁か、かの渋江抽斎の墓碑と渋江家のお墓がある。

さて、1644年。感応寺の日長上人が境内に建立した五重塔は1771年の目黒行人坂の大火で焼失するも、わずか20年後にはに再建され、上野戦争、関東大震災、東京大空襲も生き延びたのに、不倫の焼身自殺で跡形無く燃え尽きたとは無念なり。



幸田露伴既に亡き後だった事がせめてもの慰めだが、幸田文の事件に寄せる衝撃を何かで読んだ記憶がある。五重塔が能く見えていたろう露伴の2年間暮らした屋敷跡には当時からあったという珊瑚樹が健在。



谷中霊園は何度か訪ねているが、お寺、五重塔を中心に眺めてみたのは今回が初めて。今は真っ直ぐな寺前の道路がかつて参道であったと寺の人から聞く。霊園外に日蓮宗のお寺の沢山あることからもよほど大きな寺領であった往時が偲ばれる。日蓮宗は権力から嫌われた一点で胸がすくなぁ。

ところで上野戦争では会津藩士の戦死体は新政権が埋葬を禁じ野ざらしの累々たる状態だったことを何かで読んだ。吉村昭だったか。恐らく当時この近辺は人の住める状況では無かったろう。

五重塔そのものも土地も、公称では「東京市に寄進」とあるものの、寺側からすれば没収であり敷地の大半が上野戦争後、公営墓地にさせられてしまった事になる。

日蓮上人は極楽の池から覗いて何をか思われん。


初めの画像の銅製釈迦如来坐像は感応寺が天台宗に変わる直前に建立された。その時の日蓮宗十五世日遼が最後の住持と銘板にある。隣接の谷中霊園寛永寺領の徳川家霊廟の最後の将軍も十五代。そのすぐ側に控えるように渋沢栄一の墓






最終更新日  2021.09.30 19:42:58
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2021.08.18
カテゴリ:本と歩くのだ
2021/08/18/水曜日/晴れ暫し強い雨

念願叶い 吉村昭記念文学館へ

彼の『彰義隊』を読んで会津まで墓参に出かけたのは昨年のこと。それを踏襲して元上野寛永寺の表門が納められ、会津藩士が祀られている円通寺に先ず足を向ける。

目白駅から学習院前を過ぎ、千登世橋を折れて都電荒川線の鬼子母神前田美波里停車場から円通寺の最寄りである終点三ノ輪駅までゆく。



さくらトラム?やっぱり都電荒川線です。/目白小学校150年記念の像/千登世橋の竣工は昭和7年。土木技術の上からも価値ある一つらしく親柱のデザインは最近手を入れた模様。線路向こうのフランクライドライトの明日館の影響を覚える。/三ノ輪の路地裏




立派な黒門には夥しい数の銃弾痕があり、戦闘の激しさを伝える。/この一角に荼毘に伏された隊士の碑が祀られている。/新政府が行った暴虐は、隊士らの亡骸を引き取ることを許さず野ざらしという、武士には耐え難いものであったあった。/そこに手を差し伸べたのが寛永寺出入りの神田の商人と円通寺23世和尚だった。/その縁があっての黒門と彰義隊なのだ。




円通寺縁起によれば坂上田村麻呂が開山の伝説故か、何とも血生臭い伝承の最たるものは、小塚原の地名の元ともなった源義家が奥州平定で持ち帰った四十八の首を収めた塚とその供養塔だ。

ここから10分も歩いた所には荒川の縄文からの遺跡が見られる歴史館がある。

さて三ノ輪の駅まで突然の雨に打たれながら3.4駅先の吉村昭記念文学館へ。館の文芸員の方の丁寧な説明もいただき、吉村昭がより身近に感じられた。

彼のご両親は意外にも東京ではなく静岡出身の方だった。また敗戦の前後に両親を失くし家も戦火で消失。何より敗戦を挟んで世界がガラリと変わり、かつそれに瞬く間に順応していく人びとの姿を目の当たりにした多感な少青年期に肋膜炎で我が身も明日もしれない、これらの背景が彼の作品の芯にあると理解された。

かねてより、そして新たにいくつか読みたい作品も浮かび上がる。




帰途、庚申塚のお煎餅屋さんに寄り道したら閉店。コロナ蔓延以降、こういうケースが多い。






最終更新日  2021.08.18 22:16:00
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