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カテゴリ:読書
みいら採り猟奇譚
アラスジ:戦争前夜。外科病院の一人娘比奈子は、年の離れた内科医の尾高正隆に嫁ぐ。 それが“変わった結婚生活”である事に戸惑いつつ、比奈子は受け入れる。 やがて、戦争は激しくなり、二人の愛も深くなって行く。 正隆の求める“究極の愛”、それは… いつしかそれは比奈子の心にも根付き、二人の心が真に1つになった時… “最近、本読んでないなぁ” と言うか、近所の本屋が軒並み潰れて、まともに本を買ってすらいないや。 文化果つる地に住んでおります。図書館すらないっ。 この頃は他方面に気を取られており、活字離れに。今の子を笑えない。 東海林さんのエッセイ等の軽いものだと、パラパラはしてたけどね。 ここは1つリハビリ読書でもせねば、と思いまして。 読みやすくてリハビリ向き…あ、京極堂の豆腐小僧が読みたい! 分厚いけど、これなら楽しく読めるゾ。 と、本棚を漁ってたら、何故だか結局『みいら採り猟奇譚』読んでました。 なんでやねん。 リハビリが、いきなりトライアスロンになったような感じっす。 ふー、前振り長過ぎ。 閑話休題。 作家読みをするタイプなのだが、河野の本はこの一冊っきり。 テーマの異質さと、文庫の表紙に惹かれて購入。 が、その後には繋がらなかった。 河野のメインテーマには食指が動かぬでもないのだが、文体が好みから外れる。 難解な文と言う訳ではないのだが、“匂い”が違うんだよねぇ。 しかし、主題の方は大変そそられる。(と言うと、人間性疑われるけど) マゾヒズム。被虐嗜好。 こう書くとエロティックで生々しく感じられるかもしれないが、寧ろストイック。 全てを削ぎ落としてし、本質を剥き出しにすると、淫らな要素は何も無い。 人間にとって最大に心揺さぶられる行為とは、何だかご存知だろうか? それは、生命を掌に転がす事。 生殺、いずれの道を。それを決めるのが自分だとしたら。 感情のベクトルがどの方向に向くかは人それぞれだが、そのぶれの幅は人として最大のものになるはず。 マゾヒズムもサディズムも、その最大のぶれを求めての擬似行為なのだ。 この小説の主人公達は、その最大の感情のぶれに身を任せる。 正隆は己の命を差し出し、比奈子はそれを受け取る。 “エロティシズムとは死に至るまでの生の高揚である”(バタイユ) 正隆は命を絶つ事で真の生を得、比奈子は死を司る事で真のエロティシズムを享受する。 そこにあるのは、卑猥性ではなく、人間の尊厳のひとつの形であると言えよう。 それが、たとえ歪んでいる尊厳だとしても。 この小説で、“貝”が所々で顔を出す。 唐突に挟まれる貝売りの描写。 二人が疎開するのは『貝波』。 正隆が採ってきて二人で食べる栄螺。 そして、しっかりと抱きあう2枚貝の二人の表紙。 “貝”とは何か。 固く閉鎖された空間であり、死と永遠の象徴。 そう、私は考える。 殊に興味深いのが、栄螺のエピソードだ。 栄螺は螺旋を描く貝。DNAと永遠を想起させる。 これを、焼いている時に弾けて割ってしまわせる。 非常に巧みだと思った。 DNA(子孫)も永世も求めず、中の濃密な“生・性”だけ求める二人。 その二人は、蝶番で繋がれた2枚貝なのだ。 自ずと、その行く末が見える。 今回、この作品を読んでいて、森茉莉の『甘い蜜の部屋』がしきりに浮かんだ。 時代背景は多少前になるが、どこか設定が似ている。 ただ、比奈子が結局は夫の愛に答えるサディズムであるのに対し、森の主人公は全てが己に集約する無意識のサディズムであると言えよう。 家族関係、性格、色々と似た設定でベクトルが逆向きなので、読み比べてみるのも一興かもしれない。(これを分析すると、膨大になりそうだ) 恐らく、このみいら採りの方が、文学的には高く評価されているのだろう。 でも、私は蜜の部屋の方が好きだけどね。 みいら採り、己の心の奥底の欲望を掻き出す行為。 それをする勇気、ありますか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月14日 01時28分28秒
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