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【47夜】『魯山人書論』 北大路魯山人・平野雅章編
1980 五月書房・1996 中公文庫 まだ二桁代の千夜千冊です。日付は2000年5月10日。6年前になります。1年、2年 くらいだと、ついこの間という気がしますが、6年となると、ちょっと時間がたったな、と いう感想を持ちます。20世紀から世紀をまたいで書き継がれたことになるのですね。 6年前のそのころといえば、私はマウンテンバイクで東北の桜を楽しみつつ、旅をした というのが、思い出です。弘前城の桜は見事でしたし、国道7号の桜並木も陶然とす るような美しさでした。 北大路魯山人、「これは日本の数寄文化をめぐる一種の踏み絵のようなものである」 と松岡正剛はいっています。私などは魯山人が漫画『美味しんぼ』の海原雄山のモ デルらしいと聞いている程度で、彼については何も知りません。まあ、食べ物がおい しいかどうかは、まず食べる人の身体の状態が第一、と思っているような人間なので、 美食的視点は全く持ち合わせていないのです。 食べ物は基本的に身体を養うためのものであって、うまいかまずいかは、食べる人の 空腹感に左右されます。おながかが一杯のとき、病気で体調が悪いとき、いくら一流 料亭の料理人が包丁を握ったと言われたところで、食べられるものではありません。 これまでの人生を振り返って、心の底から「うまいっ!」と感じたのは身体の状態と食 べ物がぴたっと寄り添う関係になったときだけです。それはお料理をされた人の責任 ではなく、純粋にそのときの「めぐり合わせ」のたまものだということです。 魯山人は自分の料理を盛る食器を作るために陶芸を始めたということです。低級な 食器に甘んじているものはそれだけの料理しか作れず、そんな料理で育った人間は それだけの人間にしかなりえない、と彼は言うのですが、凄いことを言うものだなと 思います。プロの料理人、陶芸家としては瞠目すべき意見なのかもしれませんが、 美食と縁のない私のような人間は「そうですかねぇ」と疑問を持たざるをえません。 彼が傍若無人、傲岸不遜といわれる人柄であったことは有名です。天才の中には、 人格がかなりゆがんでいて、通常のつきあいがなかなか難しい人があります。彼も 多分にそういう人だったのでしょう。これで何もなければただの偏屈オヤジですが、 数寄文化の中に「魯山人」というブランドを残したのですから、生身の彼の姿が遠い ものになるにしたがって、落ち着くところへ落ち着きそうです。 「ぼくは“事実”というものを信用していない。しょせんはすべては“編集的事実”であ るとおもっているからだ」と松岡正剛は言います。歴史的事実といわれているもの はすべてこういうものでしょう。それを目撃した、体験した人であっても、その人の数 だけその事実の編集はあるわけで、魯山人はそういうことが起こりやすい人であった といえそうです。 北大路魯山人は、1883年3月23日、京都で上加茂神社の社家に生まれます。6歳 の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、尋常小学校卒業後、丁稚奉公に でます。画家を志しますがかなえられず独学を決意。ここから先の年譜を見ると、生 涯に5度結婚離婚を繰り返し、それだけでも大変な人物だったんだろうな、と納得し ます。 【北大路魯山人】 織部 紅葉文台付皿 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 29, 2006 05:40:59 PM
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