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カテゴリ:今日のセル
ヨハネ13:1~20
弟子たちの足を洗うイエス 似たような事を聞いた事があると思うけど、イエス様は、次の日に死ぬ事を知ってたのよ。それで弟子たちの足を洗ったんだけど、自分たちが明日死ぬとなったらどうする? したいことするのかなぁ~ 僕は多分、駅前に行って、賛美歌を歌う。普段できないけど、明日死ぬという事になったら逆にできる。賛美したり、ランダムにチラシを配ったりして、伝道する。 わかるわぁ~それ。。。 みんなに会いに行きたいと思った。 おれは、日記を読んで、自分の人生はよかったなぁ~とかやって、家族とかと話したりとかして、あとは、身近な人に伝道すると思うなぁ~。さとしは多くの人に伝える、そういうの分かる。で、俺はどっちかわかんないんだけど、この人たちには信じててほしいって言う人におもいっきり伝えると思う。 ちょっとだけずれていい?今の質問はもし明日死ぬならっていうのだけど、確かに普段伝道するの恥ずかしいけどさ、いつ死ぬかわからないからさ、いつもこれが最後のチャンスだと思ってやらんといけんなと思った。 すごくそれいいことだとおもう。この間、世の終わりの時やったとき、世の終わりが近い気がしたんよ。だったら今やらなきゃねーって思ったもん。 もう一度私の家族に会いたいけど・・・ ( ゚д゚)ハッ!日付変更線!! 笑 イエス様はさ、この事を通して何を伝えようとしたんだろう? 足を洗うっていうのはどういう意味があるん? この時ね、家に招待されたら、家で体全体を洗ってくるのよ。でも来たら足だけ洗う習慣があったらしい。 なんか、足を洗うって身分の低い人の仕事だったと思う。で、師弟で師が足を洗うって、めっちゃ弟子たちはびっくりしたと思う。 これは考えすぎだと思うけど、自分の家をこの世だとして、招待された家が天国だとすると、この世で神様の愛で洗われて、天国に行く時にようこそとされてるような・・・考えすぎかなぁ・・・ おもしろい考え方だと思う。だから、イエス様が洗ってくれたから天国に入れると。なるほど。 夕食の間の事だからねぇ。なんで夕食の間だったんだろう。本当は夕食の前だったらしいんだけど。本当は、体とか全部綺麗にしてたから、その人の家で足をきれいにしてから、ごはんを食べるらしいのよ。なのに、夕食の間に足を洗ったのはなんでだったんだろう。。。 関係ってなんだろう・・・・あなたは私と何の関係もなくなってしまってしまうのですっていうのは、師弟の関係? どうだろう・・・みんなはどうだと思う? どうなんだろうねぇ。。。 うちは、イエス様によって清められないと・・・むむぅ。 この後、ワインを飲んだり??? 英語の聖書だと、あなたは私の一部分みたいにかかれてるから。。。 僕が思ったのは、イエス様が近付いてきてくれないと、僕らがその関係を持つ事ができないっていうか。 俺が思ったのは、イエス様が足を綺麗にしてくれるのは、10がさ、水浴したものは全身清いですっていうのはさ、霊的な意味があって、罪を許してよという意味だと思ったのよ。足はさ、歩いてきたら汚れるじゃん。でもそれを洗ってくれて、その後言ってくれてるのは、互いに足を洗いあうべきなのですって言ってるのは、難しいけど、いろんな意味があると思うけど、俺が思ったのは罪を綺麗にするって意味があると思ったのよ。それを拒むっていうことは、罪を許さないていいよということだから、関係がないという意味だと思ったのよ。 もうひとつは、イエス様が洗うっていうのは、主人が洗うって言うのはおかしいと思うけど、イエス様ってそういう人として生まれてきてくれたじゃん。みんなの先頭にたつ人となりながら、みんなに仕えるものであるという意味も含めて互いに足を洗いなさいという事があったんだろうね。だから、十二使途っていうのはイエス様と近い関係だったから、これからまとめる人になるだろうけどという意味だったのかね?と俺は思ったんだけど。 『お父様のみもとに帰っていく事、そしてそれらが人類を愛している事に他ならないこと』とか書いてあって、愛の行為で足を洗ったんだろうなと思うよ。 罪を許すって愛だもんね。それくらい愛してるっていうもんだもんね。 じゃぁ、14節は互いに愛し合いなさいってこと? そうだね、そうなるよね。 これすごい深いねー。14,15,16のなかでむずかしいなぁーって思って。まず14でイエス様があなた方の足を洗ったから、みんなもあらってくださいって事ね、15が模範を示したんだよーってこと。16は僕はその主人に勝らずつかわされたものはつかわしたものに勝るものではありませんって流れになってるじゃん?だから足を洗うのが自分よりうまいとかっていうのじゃなく、何か意味があるんだろうね。 なんかさ、先にイエス様に足を洗ってもらわないと他の人の足を洗うのは難しいってプリントにあるんだけど、それはどういう意味だろう。 許してもらってそれを受け入れて、愛を受け入れたら、内から愛がこんこんと沸き出でると思うのよ。それで人を愛せて、足を洗えると思った。 まず愛してもらわないと人も愛せない。 俺もそうだと思ったのよ。まずイエス様から許されないと、愛されないとさ、その喜びを伝えていくのは難しいと思うのよ。おれらが伝道したいと思うのは、クリスチャンでよかったって思うからじゃん。まさしくそれに当てはまると思う。イエス様が愛を下さる方だから、超えられないんだろうなと思う。 他になにかあれば。 この時代の人で足を洗うって言うのは、その人に仕えますという意味だったと思う。 ユダのことについて考えてて、しんどかったのかなーどうなのかなーどういう気持ちだったのかなーと思った。もしもそれで互いに愛し合いなさいって洗われたとして、その意味をユダが知ってたとして、その時の思いはもう遅いんだーっていう思いがあったのかなー ★今日はここでおしまい★ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/06/30 12:48:05 PM
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