波乱万丈な半生と、アンビリバボーな体験

 私は、産経新聞在籍中にの昭和56年に、広島大学歯学部のH名誉教授(既に先年、お亡くなりになられた)を取材したのがご縁となり、すっかり気に入られて高度な運命占術や、白魔術の秘術・秘伝を一子相伝の形で手ほどきを受け、修行の結果、会得しました。しかも、実験衝動運命心理学や、生まれ変わりの科学、まだ知られていない宇宙の仕組みなど、多岐に亘りいろいろと教わることが出来たのでした。これにより、普通では見ることの出来ない天使や妖精、霊を看ることができ、また、幽体離脱して異次元の世界に自由に行き来できるようになり、時空を遡って過去や未来を覗くことも可能となりました。若し、他の方々のように、普通に生まれ、あまり浮き沈みもなく普通の生活をしていたら、見えないものが見えたり、異次元の世界へ出入りすることは不可能です。私の場合は、母の胎内にいる時に、母が出征した父の安否を気遣い、不安を抱いている感情が伝わってきましたし、いつも胎内にいる私に話しかけてくれていました。また、出生直後のことも記憶しており、産道を出る時、息が止まりそうで窒息しそうになったのです。生まれて暫くは仮死状態だったと聞いております。
 父は海軍兵学校を出て、ほとんどを下士官として駆逐艦に乗り込んでいましたので、母との夫婦生活は半年ぐらいで、三度目の兵役で敵機に撃沈されて海の藻屑と消えました。時に2歳の時でした。そのため、父の膝に抱かれた記憶はありますが、残された僅か数葉の写真で父の顔を知るのみです。
原爆投下の三ヶ月前に、母は広島の縁類を頼って、京都から私を連れて広島に来たのですが、その僅か三ヶ月後の8月に被爆したのです。幸い、奇跡的にも直接の被爆は免れましたが、数時間後に母に手を引かれて被服廠の建物を出、まだ熱風覚めやらぬ、黒い雨(放射能)の降り注ぐ中を、廃墟と化したヒロシマをあてどもなく彷徨ったものです。瓦礫にも道端にも至るところに黒焦げの変形した死体や、苦悶の表情で虚空に片腕を挙げながら「水、水、水・・・」と、あらん限りの声で叫び続けている者、また、露出した背中や胸、腕、顔などの皮膚がペローンと垂れ下がり虚ろな表情で彷徨っている者、火傷のため次々と川に飛び込む者など、それは悲惨な光景で、阿鼻叫喚の地獄でした。その時の光景は、幼い私にはあまりにも強烈で、未だに瞼に焼き付いております。その数日後には幼いながらも、大人に混じって黒焦げの死体処理を手伝っています。
 敗戦後、住む家とてなく、食べるにも事欠き、まさに乞食同然の生活が長く続いたのです。ようやく人の世話で住むことが出来たのは、暁部隊の使っていた廃屋同然の棟で、あらゆる害虫の巣窟でした。放射能を一杯浴びているため、ムリが出来ず、小学校に入っても体育・運動は全くダメでした。
母は私の成長のみを生き甲斐とし、生活のために、きついドカチン(失業対策事業)に出ていたのですが、後年、過酷な肉体労働が元で倒れ、一時、元気を取り戻しても、すぐ、原爆病院に再入院の繰り返し。結局、子宮がんから大腸がんを患い、人工肛門の手術をする羽目に。最後はがんがあちこちに転移して薄幸な人生に幕を閉じたのです。
 私自身も、生活が貧しいため義務教育止まりで、社会へ出てもミスやポカが多く、不運続きで一ヶ所に長く留まることが出来ず、転職の繰り返し。そのため、いつも見習いでまともな収入は得られませんでした。しかも子供の時から幾度もの大事故や病気に直面し、死の危機に晒されておりますが、不思議なことに、その都度、天佑が働き、危機一髪のところで救われています。そうした何度もの死に直面する度に、死への恐怖が薄れていき、いつ死神が迎えにこようと恐れることはないと思うようになり、或ることがきっかけとなり、死を超越することが出来るようになったのです。幼い時から成人に至るも、困窮していたので新品を買うことは出来ず、身につける下着や服、靴、下駄など、全て人からのお古や廃物を拾ってきては繕って利用していました。そのため、周りからは「セコハン男」とまであだ名されていたのでした。
 おかしなもので、社会に出てからは勉強が好きになり、暇さえあれば独学で、数学・理科・国語・社会・歴史・速記などのテキストを開き、夜遅くまで勉強したものです。砥石工場を皮切りに、あられ菓子の町工場、印刷会社、旋盤工見習い、トラックの助手、ダンプの運転手、ジュークボックスレンタルの営業マン、事務機器の一発販売のセールスマン、輸入時計の販売会社の営業、新聞の勧誘員、事務機器の営業所長、百科事典のブリタニカのセールス、経済月刊誌の普及員、学研の書籍・情報の営業マン、イベント会社の社員等々、数え挙げれば20幾つもの転職を繰り返し、職業安定所の担当者たちも呆れていました。そんな中、広告関連の会社が出版部門を新設すると知り、早速応募したのですが、応募者が50名余りあり、採用枠がたた2名しかないにも関わらず、私がその中の一人に採用され、数日後には何と編集長を任命されたのです。月刊タウン情報誌の『ディスカバー広島』を中心に、姉妹紙の『ディスカバー広島ステーション』『ディスカバー東広島』『ディスカバー五日市』『ディスカバー祇園』『ディスカバー佐東町』『ディスカバー可部』『ディスカバー海田』など計八つのタウン誌・紙の統括編集長ですから、大変です。何しろ、編集など全く素人ですからスタッフ6名と試行錯誤しながら、昭和47年3月にようやく出来上がり、発刊に漕ぎ着けたのです。
 話は遡りますが、昭和36年に旋盤工見習いとして神戸の親戚の所に間借りしていた頃、神戸の三宮の古書店で一冊の運命学書を買い、四柱推命術・易・人相学・姓名術を研究するようになりましたので、趣味の占術を活かして、これらのタウン雑・紙全てに占いコーナーを設け、通信鑑定にも応じることを書いたのですが、広島駅を利用する乗降客が『ディスカバー広島ステーション』をご覧になられて、各地からの鑑定依頼が舞い込み、編集長室で一人残って深夜まで鑑定に忙殺されておりました。読者も徐々に増え、広島テレビの情報チャンネルという番組に出演依頼まできたのですが、過労と胃潰瘍でダウンし、治療のため結局退職せざるを得なくなったのです。
 その後、一年近くかかって健康を取り戻すことができ、再び職探しに奔走。と、或る日のこと、「広島サンケイビル9F建の完成に伴い、支局員募集!」の新聞広告を目にしたのです。それには、「中途採用であっても、大卒者に限る」となっていましたので、私の場合は学歴もなく母子家庭なので対象外なのですが、最初から蹴られるのを覚悟で、形振り構わず無謀にも応募してみたのです。驚くなかれ、数日後、第一次の面接通知が届いたではありませんか。多分、どんな身の程知らずのバカなのか興味があって、顔を見てやろうということだろう、と思ったのですが、ひとまず出向きました。何と50人余りの人間が廊下に待って面接を待っていたのです。
 最初の面接ですから、皆、それぞれにきちっとした身なりをしていますが、私はよれよれの背広でダサイ身なり。これじゃあ到底ムリで、待っている途中からこのまま帰ろうかと思いましたが、思いとどまり、順番を待ちました。いよいよ順番が来てドアを開けて中に入りましたが、好奇の視線を感じ一寸、見を引いた程です。3人の面接担当者の前に身を硬くして座り、履歴書を見ながらいろいろと質問攻めにあいましたが。その間、30分。ようやく開放されて外に出た時は、手が汗まみれ。面接のことを思い返すと、「やはり無謀であった。土台、学歴もなく母子家庭で、しかもあまりにも多い転職など、ハナから応募する方が間違っている」と反省し、帰途についたのでした。ところが数日後に、何と第二次の面接通知が届いたのです。
 なんでだろう、と疑問に思いながらも、指定された日に面接に臨んだのですが、簡単な筆記試験の後、呼ばれて中に入ると、「大阪本社と東京本社に君のことを伝えたら、『そんな者を採用するのはいかん!』と反対する部長もいたが、あちこち転職して経験が豊富なので、試験的に臨時採用してみたらどうか、との意見もあった。結果は後日知らせるが、あまり期待しないように」と、担当者から言われたのです。こうなれば、たとえ臨時でも何でもよく、兎に角、採用されることのみ祈る毎日でした。その一週間後に祈り叶って電報で採用通知を受け取ったのです。喜びも一入で、飛び上がらんばかりでした。入社後、何と採用されたのはたったの2名で、一人は早稲田大学出身者であったことを知り、驚いたものでしたが、支局長が言うには「応募者が多かったので、採用したい人間は5人ほどいたが、本社の専務と部長の一声で、君を採ることになり、後の4人は落とした」と打ち明けてもらい、幸運中の幸運だったとしみじみ喜びを噛み締めたものです。
 実は、タウン誌や姉妹紙の編集長を経験していたこと、カメラマンを連れての観光地の取材活動や、広島に来る芸能人の取材、タウン誌・紙の全ての文章や、商店や企業のキャッチコピーを私一人が書いていたこと、早稲田式速記をダンプの運転手時代から勉強していたこと、渉外経験があることなどが採用の決定に繋がったことも教えてもらいました。入社後、暫くは同僚や先輩などから白い目で見られたり、嫌みを言われたりしましたが、じっと耐えていました。
入社後、2年ぐらい経った時でしたが、3人ほど好きな女性がいて付き合っていましたが、そのうちの一人とは、「お嬢さんを戴きたい」と先方の両親や家族に頭を下げ、快諾を得ていました。支局の女性とも付き合っておりましたので噂になり、いずれ二人は結婚するだろうと話題にもなっていたその頃、東京本社から取締役待遇の部長が広来されたのです。この部長は本社だけでなく全国の各支局からも恐れられていた厳しい仕事人間でした。広島支局は8名体制で、他に独身男性が2、3人いたのに、どうしたわけか部長が私を指名し、あちこちカバン持ちとしてお供を仰せつかったのです。身の上話を聞きたいと仰り、生い立ちから今日までのことを事細かくお話したのですが、「いつまでも独身でいるのは体に良くない。一つ、心当たりが4,5人いるので、見合いでもしてみないか」と言われビックリです。3人の女性と付き合っており、そのうちの一人とは結婚をすることになっていることを告げる間もないまま、部長がさっさと話を決めてしまい、その秋に見合いすることになったのです。
 もう若い時から、あちこちから縁談があり、その度に見合いしておりますので、見合い慣れしております。10人近くもの見合い経験がありますので、唐津からお母さんと一緒にやって来たその女性には、もじもじすることも上がることもなく、臆せず話をしましたが、これが相手の女性に好印象を与えたようで、結局、その3ヵ月後にゴールインしたのです。私より七つ年下ですが、第一印象は華やかさがあり、また美人で、しかも、映画にも2,3本出演したことがあるとかで、とても、私如き人間の妻になるような女性ではありません。家柄も良く、釣り合いがとれないし、自分には既に結婚の約束までしている女性がいるので、すぐにでも断るつもりでいたのですが、何と、その女性は部長の姪御さんであったのです。これには弱りました。私のような無学で貧困の家庭で育ち、しかも母子家庭の男です。それを承知で、部長も先方の母親も私を姪御の、また、娘の結婚相手に選んでいただいたのですから、無碍に断る訳にもいかず、思案に暮れましたが、結局、何の障害もなく結婚出来たのですが、結婚に至るまで手紙を2回交わしただけで、見合いした時に会っただけですので、何か運命の不思議を感じます。尚、相手の両親から快諾を得て、結婚の約束をした女性とは自然消滅の形で終わりました。ところで、部長の姪御さんを妻にもらって驚いたことは、躾が良く、また洋裁は勿論、茶道・華道を身に付けていたことです。しかも、毎朝、私が出勤する際、昔の武士の妻のように、玄関に正座して三つ指をついて送り出してくれるのです。これには正直、驚きました。何か、夢でも見ているようです。今の時代、一体、何処に三つ指をついて夫を送り出す妻がいるでしょう。上流階級でしたら、そういうこともあるでしょうが、安月給でしかも二間しかない安普請のアパート住まいです。
妻との相性や運命を占って看ましたら、前世・過去生からの宿縁で結ばれていることが解り、男女の出会いは地位とか家柄だけにによるのではないことを改めて認識した次第です。うだつの上がらない冴えない私の妻になってくれたことに心から感謝し、自分に出来ることは、何でもしてやろうと考え、結婚早々から台所に立ち、お米を研いだり、食後の食器洗いやをすることにしたのですが、「男の人は台所にたつものではありません。いくら私のためとは言え、そんな姿を見るのは嫌です」と言われたものでした。毎月袋ごと渡す給料は少なく、妻のやり繰りは大変でしたが、そのうち妻も働きに出るようになり、それと同時に、三つ指をつく姿も見られなくなりましたが、それでも3年間は続いたのです。
 さて、取材や営業活動に中国・四国・九州と飛び回りましたが、そんな中、昭和56年に広島大学歯学部のH名誉教授を取材。その折に、運命占術や白魔術などに造詣が深いことを知り、ビックリしました。教授が「君と会うのは初めてなのに、何か遠い昔から知っているような気がする。君の前世を看て上げよう」と言われ、「えっ?」と思わず口にしました。歯学部の部長候補でいらっしゃる方が、運命占術を深く研究し、毎週日曜日にはご自宅の広間で、多くの受講生に易占や四柱推命を教えておられると聞き、驚いたその上に、「前世を看て上げよう」と言われたのですから、一瞬、キョトンとしました。で、私の顔を少し凝視され、名前と生年月日を聞かれて、暫し瞑想されたのです。以後、沈黙されたままで一言も発せられないので、どうしたものかとやきもきしていたのです。それから30分後、ようやく目を開かれて告げられたのは「君の前世を探査したところ、江戸時代中期で下級の文官であった。生活は苦しく最後は病気になり45歳ぐらいで亡くなった」との御託占だったのです。その時は、前世のことを告げられても半信半疑でした。「運命を看てあげるから、数日後に再び来なさい」と言われ、一週間後に仕事の合間を見て教授の元を訪れて鑑定書を頂きましたが、それには、生まれてからのことが、年ごとに列記してあり、一通り目を通してウーンと唸ってしまいました。
 私のマスターした占術のレベルとは格段の差で、それまでの半生が悉く当たっていたからです。これですっかり運命学を見直し、また虜になり本格的に研究することになったのですが、幸い、教授より、「君は私の元にくるようになっていたのだ。前世からの縁なので私の身に付けた秘伝や秘術の全てを君に伝授しよう。君には今はまだ信じられないかも知れんが、50代の半ばに糖尿病が元で一時危険な状態に陥るが、天命を受けているので、その使命を果たすために何かを与えられて、無事に乗り越えることが出来る。それを契機として以後の人生が大きく変わり、何か著作物をモノするだろう。それにより、君の名が広く知られるようになる。それまでかいろいろな苦労や試練が降りかかる出あろうが、自暴自棄にならず希望を持って生きていきなさい。また、私の伝授する占術や秘術・秘伝を一日も早く会得して、人を導きなさい」との有難いお言葉を頂戴したのでした。以後、研鑽を積み修行して会得するに至ったのです。そのお陰で、他の人には決して見ることが出来ない天使や妖精を見たり、幽体離脱して時空を遡り、異次元の世界の出入りも可能になったというわけです。


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