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やすらぎへの道

やすらぎへの道

東洋医学の道へ

「東洋医学の道へ」

そう考え始めたらすぐに実行に移さなければ気がすまないので、
すぐに鍼灸学校の入学案内を取り寄せた。

すでに1月だったので1次募集は締め切られており
2次募集の応募に間に合うのも全国で2校だけだった。

すぐに両方に願書を出してそれから受験勉強を始めた。

急に思い立って申し込んだので知らなかったが、
思っていたより入るが難しいらしく倍率も結構高いのだ。

2校のうち仙台の学校になんとか合格し、
久しぶりの学生生活を仙台ですることになった。

鍼灸の専門学校は3年間で入学金や授業料もばかにならない金額で、
蓄えがほとんど底をついてしまった。

文枝が働いてくれていたおかげでなんとか生活できている状態だったが、
不思議と将来に対する不安は二人ともまったく感じていなかった。

どんなことをしても食っていくくらいならなんとかなる
という妙な自信が海外の生活で養われていたようだ。

朝は新聞配達をして、昼学校に行き、夕方からは治療院の
手伝いと漢方の勉強会、あの頃は本当によく勉強したと思う。

学ぶというのがこんなに面白いことだと
25歳になってはじめてわかった。

学校に入って半年ほどで学校の勉強だけでは限界を感じて、
個人的に漢方の勉強も始めた。

鍼灸院と漢方薬局をやっている先生のところで漢方と鍼灸を学び、
治療院の手伝いもさせていただいた。


ここの先生が素晴らしい先生で、漢方や鍼灸などの
東洋医学だけではなく、易や四柱椎命、風水、気功、
精神世界など幅広い分野で独自の世界観を持っている先生だった。

学校ではなく私塾のような形で個人的に教えている
だけだったが、医師や衆議院議員、薬剤師、鍼灸師、
普通の主婦など多彩なメンバーでおこなわれた。

先生は現在の松下村塾だといっていた。

先生は時々東洋医学から話が脱線して精神世界の話になるのだが、
それがまた先生という人を学ぶいい学習になっていた。

私はこの先生から東洋医学の神髄を徹底的に教え込まれた。

この先生は素晴らしい哲学を持っていた先生にもかかわらず、
筆無精で本を出されていなかったので、全国的には
あまり有名ではなかった。

そのおかげで、本当に手取り足取りマンツーマンの様な
形で教えてもらうことができた。

私がいまゲストの方にアドバイスしているさまざまな
健康法の要になっている体質の見分け方はほとんど
この先生に教わったといってもいい。

またそれ以上に先生の生き方を通して、常に学び続ける姿勢と
物ごとの本質を見る大切さを身をもって教えていただいたような気がする。

たまたま2次募集でそこにしか受からなかったので暮らす
ことになった仙台で、それも学校以外のところで出会えた
先生との出会いは私の人生の大きなターニングポイントになった。


鍼灸学校を卒業し無事に国家試験にも合格したところで、
東京の治療院で働くことにした。

世田谷の三軒茶屋にある治療院で患者さんの数も多く
忙しいところだった。

しばらくして代々木上原に分院を出す話があり、
新規の治療院を立ち上げることに興味があったので
自らすすんでオープニングスタッフに加わった。

新しい治療院は始めこそ暇だったものの、
しばらくすると口コミで患者さんが増え始め順調に軌道に乗り始めた。

この治療院から歩いて10分ほどのところに
以前提携診療所になっていた幡ヶ谷診療所があった。

この診療所は川勝先生という先生が院長をしていたが、
私が食事療法の施設に興味があることを知ると
伊豆の保養所でスタッフを募集しているらしいと教えてくれた。

すぐに電話をして詳しい話を聞いてみると、
調理の経験があって、ペンションでも働いたことがあり、
治療師の資格があるなら文句なしなので、
できるだけ早く来てほしいという返事だった。

そのころには新しい治療院も軌道に乗っていたので、
院長に事情を話してやめさせてもらうことになった。

オープニングスタッフだったのでいろんな思い入れもあり
後ろ髪を引かれるような気持ちもあったが、
自分の中にある滞在型の総合的な施設で働いてみたい
という気持ちは押さえようがなくなっていた。


東京を離れ、伊豆での新しい暮らしが始まった。

北国で育った私たちには伊豆のうっそうとした緑は新鮮だった。

東京の治療院にいるときはどこかで仕事として割り切って
働いていたが、伊豆での仕事は自分の関心のあることだったので、
毎日張り切ってやっていた。

ただ、思い入れがある分だけしばらくすると理想と現実の
ギャップを感じるようになってきた。

ゲストにもっと喜んでもらうための仕事よりも事務仕事の方に
追われているような感じだった。

そんな中で仕事をしているうちに自分で独立してやってみたい。

自分の力を出し切ってのびのびと思うようにやってみたい
といつも思うようになってきた。

そんなときに日経新聞の取材が来て新聞に記事が載ることになった。

この反響がものすごいものだった。

その時にみんなこんな施設を求めている、ただその受け皿に
なるような普通の人が違和感なくいける施設がないだけなんだと確信した。


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