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村山聖さんは、羽生さんと同じ世代です。
生前は「東の羽生。西の村山」と言われる程、すごく強い人だったのです。 将棋を離れると、愛くるしい人物だったようです。 現在、お墓は広島県内にあるようですね。 彼の言葉で、彼の深い優しさを知ることができます。 「人間は悲しみ、苦しむために生まれた。それが人間の宿命であり幸せだ。 僕は死んでも、もう一度人間に生まれたい。」 平成10年2月(28歳)NHK杯決勝・対羽生戦にて。これが羽生氏との最後の対局。 村山さんは羽生さんのことは、好きだったみたいですね…。 また、彼が亡くなる年の年初の目標が「生きる」。 どんな心で、その言葉を選んだのか。胸がキュッと痛くなります…。 村山さんと親しかった、先崎学さんの追悼文を紹介します。美文です…。 この追悼文が、生前の村山さんの御人柄を、偲ばせるものであると思います。 今、僕は東北の温泉に居る。静養のためである。 行く前に、三つ、誓いを立てた。 一、酒を飲まない。二、嫌なことを思い出さない。三、嫌なことに触れない。 そこへ、村山聖が死んだとの知らせた入ってきた。 死というのは常に意外なものであるが、 半ば予期していたことでもあった。 一年くらい前、彼が、今まで指した将棋の実戦集を出したいと言いだし、ついてはどうしても僕に代筆を頼みたいといっているとの噂が入った。 将棋指しが将棋指しの実戦集の代文をする。 それを書かねば貧窮するわけでもないので断ろうと思ったが、手術の後の微妙な時期に実戦集を出したいということに、 彼の迫力を感じ、迷いに迷った。 迫力というのはややこしい言葉だが、ありていにいってしまえば、 彼は、死期を悟っているなと思った。 深夜の居酒屋で、郷田、中田功と激論を交わしながら、 気合いで書くことに決めた。 「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」酔った勢いで僕は叫んだ。 横で中田功がボロボロと泣いていた。 村山が東京にアパートを借りていた頃、たまに飲んだ。 ワインが好きな男だった。(この、だった、という言葉にまだ非常なる違和感を感じる) 二度ほど、急性アルコール中毒で病院に担ぎ込んだこともあった。 二度とも、僕は点滴の横で彼の横で彼の鞄の中にある推理小説を読んでいた。 一度目に倒れたとき、泥酔し、ほとんど歩けないような村山が、 勘定だけは割り勘にしようと言い張った。 理由を訊くと、ろれつの回らない声で、 君には借りをつくりたくないと呟いたり叫んだりした。 将棋指しがライバルに借りを作りたくない。 この神経は分からなくもない。 が、それにしても彼は酔っていた。 ふらふらだった。それでも必死で財布からお金を出そうとする姿に、僕は一種の狂気と執念を感じた。 実際、村山はシビアな男だった。 並の将棋指し以上にあらゆる勝ち負けにこだわった。 麻雀をやれば、彼が勝っているか負けているかは一目で分かった。 子供の頃から死を見つめて来た男にしては達観することがなく、 お金の貸し借りには潔癖だった。 そのくせ、大崎編集長と三人で飲んで世界普及のために若手棋士が金を出し合おうと冗談を言うと、次の日に百万円を用意してきて周りを慌てさせたこともあった。 村山は普通の青年が当たり前のようにすることをしたいという願望が強かった。 そのために麻雀を打ち、酒を飲み、人生を、将棋を、ときには恋を語り合った。 二人で飲んだとき、村山が、唐突に僕に向かって、 「先崎君はいいなあ」と言い出したことがあった。 健康の話ならばいまさらという気がしたが、 どうもそうではないようであった。 僕に、彼女がいるのを羨ましがっているようなのだ。 自分には夢が二つある、と彼はいった。 一つは名人になって将棋をやめのんびり暮らすこと。 もう一つは素敵な恋をして結婚することだといった。 大丈夫だよ、君をいいという人が必ず見つかるさ。僕は言った。 ダメだ、こんな体じゃ。彼はふるえた。そして呟くように言った。 死ぬまでに、女を抱いてみたい・・。 それから、彼は堰を切ったように家族の話をしはじめた。 母に心配されるのが一番辛いといい、 自分には兄貴がいて、 これが、自分に似ずに格好いいんだわ、 と何度も何度も繰り返していった。 そして、東京に来て嬉しいことは、皆と麻雀をしたり、 君とこうして酒が飲めることだといって、倒れた。 二度目の点滴のことである。 それが、最後の二人の席になった。 村山が膀胱癌になったと聞いたとき、様々に僕はショックを受けた。 彼が小さい頃から患った腎臓以外のところが悪くなったのもショックだったし、 酒や麻雀などの不摂生で自分が片棒を担いでしまったかとの思いもあった。 それにもまして、彼の二つの夢が、どちらか一つでも死ぬまでに叶うのだろうかと思った。 彼の体を心配してくれる女性は母親以外にいるのだろうか。 彼は恋をしているのだろうか。 村山聖には志があった。名人になりたいというでっかい志が。 と同時に普通の青年として生きたいという俗人としての欲望もまた強かった。 強く、せつなく、そして優しく悲しい男だった。 今、この文章を読んだ方は、決して忘れないで頂きたい。 そして語り継いで頂きたい。 平成初期の将棋界を駆け抜け夭折した男は、将棋の天才だったと。 と、同時に人間味溢れる青年だったと。 今、僕の誓いは二つ目と三つ目が脆くも崩れた。 仕方がないので、僕は酒を飲んで君のことを思い出すことにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年08月08日 12時56分18秒
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