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2018.12.02
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カテゴリ:生き方

人間の認識力は限りがある

熊谷明彦先生

 人間は自分の都合の良い物だけしか、認識しないように出来ています。例えば、光が入って来ると、角膜、水晶体、網膜、神経繊維、脳という順番でカットを繰り返して、整理された情報を認識しているのです。それは一斉に様々な情報が入って来ると、人間は狂ってしまうのです。このように制限する事で生命体は守られ生きて行く事が出来るのです。この事は当然、人は全てを認識出来るようになっていない事を意味しています。化学的に進歩した能力とは、人の多くの能力の、内の合理的思考能力が、他の能力の、犠牲の上で飛び出ているだけなのです。本来人の能力は、たんに合理的能力のみではなく、直感、思考、感情、感覚的能力のように多岐にわたります。

 余談ですが不思議な事に、この四つは能力のバランスが難しく、思考能力が発達していれば、感情能力が劣っているという事が多いようです。その他にも能力は無意識領域まで及びます。この能力というものは、それぞれ個人差が大きいようです。人は本当の自分自身は意識出来ない所にあるのです。また我々は自分の気が付いている世界が全てではないという事を認識すべきなのです。

 現代学問は自分の分かる範囲だけでの事だけなのです。例えば現代のエネルギー論も間違いだらけなのです。エネルギーは消費したらなくなったと思っていますが、実は消費したエネルギーは姿をかえて逆転するのです。この事をエントロピーの増大、マイナスのエネルギーの増大と置き換えるのが正しいカタチなのです。病気やけがの時にエネルギーを使いますが、使い過ぎるとエントロピーが増大して免疫力が無くなって行くのです。

 生き方の中でも・他人に対して嫌なことをしたエネルギーは嫌な種として残ります。役立つことをしたエネルギーも役に立つ種として残っていきます。(阪本 記)

大極とは何でしょうか?

 自然というものは、まだまだ大きい範囲で人間には分からない事だらけなのです。私達が氣つくものはごく僅かです。氣がつかない物の中に大切な大極があります。大極から自然の力が飛び込んできているモノの統体の事です。陰陽論の大極を直接的に認識する事は出来ませんが、大極が陰と陽、精と氣を生じるのです。ですが陰や陽に傾いた時には既に大極とは言いません。大極にあるものを元なる氣=元氣と呼びます。それが一つの「氣・精・神」として表出し、「氣・精・神」が統合され「大極にある本来の統体の似姿」・「統合体」をなすとき、そこへ「命」が宿るのだと思います。

 「元氣」は大極に準備されていて、ここから「氣」として送り込まれ、生命活動を推進する「氣」、この「氣」の精華である生殖、成長や発育、身体の充実、活性の基礎となる「精」。この「精」が充実すれば、そこに「神(心的作用)」が宿ると考えられてきました。つまり「氣・精・神」は「氣」として「大極」から送り込まれるものであり、決して人為により密造されうるものではないのです。

 もし、身体に「大極」から来る「氣・精」が送り込まれないと、それは物にすぎない。この物に飲食・呼吸・環境を通して「氣」が供給され、氣の転化した「精」が充実した時、そこに「神」が宿るとされています。




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最終更新日  2018.12.02 18:02:38
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2018.11.27
生き方

教えて頂いたこと33



悩みというのは自分のことだけを考えますと苦しくなってきます。自分が自分の考えで自分の心の中に入ってしまって、他のことがわからなくなってしまっています。いわゆる自己中心になっています。こうなって来るとノイローゼになってしまいます。その結果自分の存在を失います。

諺にもありますように「天は自ら助くるものを助く」です。
 要するに、天は自ら他を助けようとするものを助けるのであって、助けてもらいたいものは助からないことになります。こういうふうに考えていきますと、どうしても親の考え方をしなければ、助からないことになっています。子供の考え方の助けてもらいたいというのは、助からないのです。

助かっていない境遇の人は、助けてもらいたいと言います。しかし、助けてもらいたいと1回言った人と、何回も助けてもらいたいと言った人では、何回も助けてもらいたいと言った人の方が、より助かっていないことになります。だから、問題があっても、助ける側に立って助けることをしなければ、助からないことになります。要するに、どんな時でも、助け合わなければならないのです。

判りやすくいうと、借金をして、助けてくれと言って、お金を借りてどんどん借金をしていく生き方をして行くと、借金した分だけ、ますます助からなくなって行きます。此れに反して、借金があるのに、周りの人たちや、世の中の役に立つことを、少しずつでも行うことが、運命財産であります運命の貯金が増えて、結果的には、借金を返済できる運命・環境が与えられて、助かる運命になっていくことになっております。

つまり、相手にプラスをして、助けた分だけ助かることになります。しかし、助けてもらいたいと思い、してもらった分だけ、借金が出来て助からないことになるわけです。


実行実現について


こういうことが判ってきますと、次にどうしたらその様に生きていけるかということになります。普通、泳ぐことが出来ない、自動車の運転が出来ない時は、それが出来るように努力しようと致します。生きることも、全く同じことで、役に立つ生き方を努力して身に付けることが大事であります。事実、実行しないとプラスの結果は出ません。例えば、畑に種を蒔くことを知ってはいても、種を蒔かなければ、生えてきません。実際の行いがなければ、その様な結果は出ません。自分の欲求を満たす為の努力はしても、他の為に役に立つ気持ちの努力は致しません。つまり、生きる事に、その様な努力をしようとは致しません。こういうことが大変重要な問題であります。このことが判って実際に実行実現しなければなりません。

夫婦の問題でも、結婚前は相手の為に映画に連れて行ってあげようとか、美味しいものを食べさせてあげようとか、似合う洋服を買ってあげようとか、相手にプラスをしようと考えていますが、結婚後は、相手にああしてくれ、こうしてくれと要求ばかりして、してくれないとお互いに不機嫌になり、こういう人だとは思わなかっただとか、要するに、してあげようという親心はなく、してもらいたいという子心になってしまっています。何も夫婦だけに限ったことではなく、親子、兄弟、友人、知人、会社の同僚、会社の上司との関係もみな同じであります。

自分が良いと思って結婚した相手なのに、こういうことがわからずに、相手の為に生きるということも気が付かず、しかも親の考え方に成長して行く事が本質であるのに、うまくいかないことを、周りのせいにしたり、人のせいにしたりして自分のせいであるという主体性が見られません。

与え合う関係であるはずなのに、奪い合う関係では、絶対にうまくいきません。此れは誰と結婚しても、どこで暮らそうとも、より良く生きてはいけないのであります。

ましてや、わけのわからない神仏に願ったとしても、自己中心の我(が)の願いが、思うようになるはずはありません。どうしても西郷翁の謂われた、他の為の生き方をしなければならないのであります。だから「人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」と謂われているのであります。どうしても、助け合う親の考え方をして、成長して行かなければならないのであります

相手にプラスの種を蒔かずして、どうしてプラスの収穫をすることが出来るのでしょうか。与えたものがマイナスであったならば、マイナスしか収穫です。


 こういう生き方がわからずに、自分中心の生き方をして、内臓を傷め、心を病んでしまっています。

漢方薬は東洋医学ですから、背後の東洋思想に踏み込まざる負えません。五行相剋説から木火土金水の考えでも甲乙・丙丁・戊己・庚辛・壬癸の十干にしても、その関係の中で、易をやっている人たちは、例えば火のタイプと水のタイプは相性が悪いと表現しますが、それはネガティブな考え方で、対立にもっていこうとしております。火と水は確かに違うのですが、助け合ってお風呂が出来るのではないでしょうか。違っていることは、素晴らしいことなのに、性格の不一致とは、どういうことでしょうか?自分に合わないとは、合わそうとする親心はないのでしょうか。ここに、大きな問題があるように思われます。



違いがあるからこそ素晴らしいのではないでしょうか。しかし、違うからいやだと思う考えをする人が多いです。其のことが、いかにも自分を正当化する考えのようですが、極端にいうと我が間々ではないでしょうか。違うことは、プラスの考え方でマイナスの考え方ではありません。違うから、その面白さがあるのだと思います。違うことに責任を転嫁してはいけないと思います。
 とにかく、全てマイナスの思考をしています。「虫が好かん」とか「悲願達成」とか「因果応報」とか全ての表現がおかしいです。「虫が好き」とか「喜願達成」とか「善因善果」の様なプラスの表現がありません。生きる生き方の素晴らしさを感じないで生きているのではないでしょうか。生きていくのは、全て、どんなことにもやって良かったということを味わいたい為にやっているのではないでしょうか。


 人生は、ときとして旅行に例えられます。本当に事実そのように思います。人生旅行は楽しく通らなければなりません。それに一日一日其の日の生きる目的は、皆もっています。

しかるに、一生の目的は誰も教えてくれません。生きるその意味も、目的もわからずに生きて果たして何か価値があるでしょうか。物事の全ては、意味わかって生きるべきではないでしょうか。意味も目的もなく行動していることがあるでしょうか?

もし差をつけたりして、この様な考え方に反する生き方をすれば、文字どおり自然の理に反することになります。生命の使い方には、対立はありません。助け合って通るべきです。




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最終更新日  2018.11.27 09:01:53
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2018.11.04
内在的な心の世界と外在的世界 
続編


教えて頂いたこと32

小鳥にとって毛虫は好物の食物の食べ物ですが、人間特に女性にとってはぞっとするものであり、毛嫌いするものです。

外在的世界の毛虫は毛虫であって、それを好物にするか、毛嫌いするかは、小鳥と人間の内在的世界の違いです。

この事実から考えれば、元来憎らしい人もいなければ、好ましい人もいないのです。憎らしいとか好ましいという実感は、その様な観念を持っている自分自身の内在的心の世界にあるのであって、相手の人にあるのではありません。

だから、本来憎らしい嫁姑も、相性の悪い夫婦も、いがみ合うべき兄弟というものは居ないのです。人間関係の良さ悪さは自分達が互いに持っている内在の心の世界のプラス・マイナスの実感によって決まります。

本来、いやな仕事、いやな環境や運命というものはありません。いやな仕事だと感じるのは自分自身であり、いやだと感じれば感じる程、つらくなって苦しむのも自分自身です。

マイナスの実感は自分にとっても、まわりにとっても損な事です。自分にとって自分の気持は一番大切なものなのです。

私達は生命力として、プラスにもマイナスにも実感できる自由選択性を持っています。この能力を使って自分の気持の世界である内在的な心の世界をプラスの世界にすべきです。

その為には、自分の考えかたや観念をよりプラスの方へ転換していかねばなりません。物事をプラスに見なければなりません。

"自分は大自然の大いなる生命の祝福を受けてこの世に活かされ生きているのだ。そして今日一日は生きる喜びと味わいの為に与えられた日だ。"というプラスの考え方と、"自分には因縁や業があり、この世に罪の子として生まれてきたのだ。だから苦しみに耐えて今日も生きていかねばならない。"というマイナスの考え方とでは、まるで正反対です。

物事のプラスの面を考えて、明るい気持で努力していく事をプラス思考と言います。マイナス思考とは逆に悪い方、暗い方ばかりを考えて積極的行動や努力をしない生き方です。

マイナス思考ばかりを行っていますと、親子・夫婦・兄弟・嫁姑・友人知人などの人間関係は悪くなり、家庭も仕事も、環境や運命も悪くなり、自分自身も苦しんで生命力を低下させ、ノイローゼや肉体的病気にもなっていきます。

プラス思考を行えば、生きる喜びと感謝の観念が自分自身の内より増々湧いてくるのです。人は誰でもより幸せを求め向上発展を望んでいます。

今日一日をプラス思考で積極的に生きることにより、自分の生命力を高め運命・環境を改善する事ができるのです。

プラス思考で生きる毎日の積み重ねが、結果として自分の人生となるのです。

「天は自ら助くるものを助く」「汝の信仰汝を救えり」などの言葉にある如く、私達は誰でもプラス思考を積極的に行い、価値ある充実した人生を送るべきです。 







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最終更新日  2018.11.04 23:00:40
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2018.09.27
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                             内在的な心の世界と外在的世界
                                                                                 
教えて頂いたこと31 


夕焼けという大自然の事実は同じであっても、それを感じてどの様に自らの心の世界、観念の世界に映すかは、各人各様種々に異なります。

ある人は夕暮れの光景の美しさを感じ、ある人は恐怖を感じ、ある人はわびしさを感じます。人は皆全ての物事を自分の心の世界に映して見ているのです。

一般意味論ではこの事を「自分が思っている通りにしか見ていない」(what you see is what you believe !) 確かにその通りなのです。

自分が相手をへんな人と思っていれば、へんな人としか見ていないのです。いやな仕事だ、いやな職場だと思って見れば、自分の心の世界にはいやな実感しか映ってこないのです。

なまこを美味しいものと思っている人には、美味しそうに映ります。西洋人の様に、なまこをグロテスクで気味の悪いものと思っている人には不気味さしか自分の心の世界に映っていないのです。心は常に自分の心の世界、観念の世界にしか住んでいないのです。自分の心が住んでいる観念の世界を「内在的観念の世界」と言います。

これに対して、自分の肉体が住んでいる物理的事実の世界を外在的物質の世界」と言います。外在的世界は同一であっても、見る人の角度や遠近によって、内在の世界に映る赤い玉は、ゆがんで見えたり、小さく見えたり、大きく見えたりします。常に同一の大きさと形であっても、いったん心の内在の世界にゆがんだ玉が映ると、私達はゆがんだものだと思い込み、そう信じてしまいます。

自分が偏見や先入観をもって物事を見、人と接した時には、ゆがんで見える如く、物事や相手の人間がゆがんで見えてしまうのであります。そして一度ゆがんで内在の世界に映ると、増々そう信じ込んでしまい、増々その様に見えていくのです。憎しみを持って人を見れば、相手の人は増々憎らしく見えてくるのです。

育児ノイローゼの母親は、子供を育てる自信がないと思って子供を扱いますから、子供を育てる事の自信を増々失い、その反面、自分はダメだという実感と信念は反比例して強まっていきます。内在的な世界には育児に関して自信を失う事しか映らなくなってしまうのです。心の内在の世界は、育児に対しての不安と恐怖で一杯となってしまいます。

ノイローゼとは、内在的心の世界に不安・苦しみ・悩み・恐怖などストレスが蓄積し、内在的心の世界がマイナスの観念で一杯になった状態です。

ノイローゼにまではならなくとも、正常な人達ですら、悩み・憎しみ・怒りなどで気持が一杯の時は同様の状態なのです。競輪・競馬・ギャンブル・酒などに狂っている場合、恋愛やその他何か夢中になっている状態などの場合は全て、夢中になっている対象が内在の世界一杯に広がっている姿なのです。

生きる喜びや感謝などのプラスの観念が内在の心の世界一杯に広がれば、悟りの世界となりますが、逆に不足・不満・恐れ・憎しみ・苦しみなどのマイナスの観念で内在の心の世界が一杯になりますと、この世は生き地獄となってしまうのです。

地獄・極楽とは外在的世界にあるのではなく、自分の心の内在的世界にあるのであります。だからこそ悟りが必要なのです。外在的世界の同一の事柄を心の内在的世界では大きくも小さくもとらえる事ができるのであります。マイナスの事は気にしなければ段々と小さく映っていき、やがては消えてしまうのです。

私達にとって一番大切な事は、先ず自分の内在的な心の世界を悟りによってプラスにする事です。 


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最終更新日  2018.09.27 20:27:11
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2018.08.18

原因と結果

教えて頂いたこと30 

科学は大自然の事実を事実としてとらえて、その原因・結果を探求していくものです。例えば医学は、肉体的なことの原因・結果を究明していくものです。しかし、肉体的なことが精神や情緒に影響されるという事の事実が判明すれば、医学は肉体的な物質面からだけの原因・結果を調べるだけではすまされないのです。

生命あるもの、感情あるものは総てその心の状態が肉体に影響します。これは当然の事ですが、最も大切で絶対に犯すことができない大自然の原理原則です。

もし心配事があれば、ぐっすりと安眠は出来ません。常に不安でいらいらしていれば、心臓にも良くないし、胃にも悪いのは当たり前のことです。ストレスが体に悪いことは当然です。

情緒が不安定であれば、心を紛らす為に酒を飲んだりすることは自己保存の本能による精神安定を求めた姿ですが、却って酒で肉体的健康を害したりして何の徳にもならないのです。しかし、こんな事はよく判っていながら感情にながされて酒を飲み体を悪くするケースが多いのです。だが、心を紛らわそうとして酒に逃げて肉体を悪くしても、心身ともになんのプラスも解決もないのです。

「原因・結果の理法」は、大自然の総てにあてはまります。物質的現象にも、肉体的ことがらにも、心や感情の面にもあてはまるのです。そして大切なことは、運命的な原因・結果もあるのです。

大自然がそのような現象を起こす以上は、そこに運命的原因・結果が厳然として働いているのです。

大自然の全ての現象にはそれぞれの原因・結果が厳然としてあるのであります。ただ、今まで人間がこの運命的原因・結果の事実を認識していなかっただけの事なのです。

人間が科学として行っていることは、大自然の色々な事実を「原因・結果の理法」によって認識・理解することなのであります。

しかし、人間は未だ運命現象を対象とした原因・結果の研究も、認識・理解もしていないのであす。

大自然が行っている総ての現象に「原因・結果の理法」が働いている事を人間は認識・理解しているのにもかかわらず、大自然が与えてくれている運命的現象にだけは原因・結果がないと考えるのは、大変な矛盾です。

人間の認識・理解を越えて事実その原因通りに結果が現れるのです。

従って、科学も、医学も,全ての学問は大自然のそれぞれの部分を対象として、大自然の真理法則を認識・理解する人間の生存行為であるといえるのであります。医学が大自然の真理法則と対立するという考えは明らかな間違いであり、真理法則を悟っていない非科学者的発想です。

大自然の全ての営みは総合されております。人間を含め全生物の生存とは肉体的要因だけで生きているのではありません。精神的・霊的・運命的・生命的、更に環境的な要因などが全て綜合されて活かされ生きているのです。

病気が治ることを一例として取り上げてみても、医学的な肉体の治療だけがすべてではありません。治るだけの生命力が高まり、治るだけの運命・環境が整い、治るだけの観念となることが必要であります。たとえ、医学的な治療がうまくいったとしても、そのような治療がたまたま受けられるかどうかは、運命的要因が影響してきます。同じ治療や手術でもある人は助かり、ある人は治らないのであります。医学者は治そうとして最大・最善の努力をしますが、それでも結果は違ってくるのです。

医者の立場にも運命的力は働いています。治り易い患者を多く扱う医者もいれば、幾ら技量が優れていても、間の悪い患者ばかりを扱う医者もおります。問題を起こす患者ばかりを扱っている医者は不運ということになります。

運・不運とは何も医者という職業だけのことではありません。全ての職業・仕事にあてはまります。人間の生存行為だけではなく、全ての生物の生存に事実としてあることなのです。

大自然が運・不運という運命的現象を現実に起こしている以上は、そこに「原因・結果の理法」が厳然として働いて証拠であります。何故なら、大自然の全ての現象や営みに「原因・結果の理法」が働いていて、運命現象にだけは働いていないということはありえないからです。

運命現象にだけは「原因・結果の理法」がはたらかない、という事になれば、大自然の真理法則は、もはや大自然の永遠普遍の真理法則ではなくなります。

大自然の力と働きは全て綜合的であるのですから、一部的・部分的・刹那てきな見方や感情的・感覚的とらえ方は間違いのもとになります。特に親子は、体質的、性格的、霊的、運命的などいろいろな要因がつながり、共通しています。人格的、観念的に子が親の影響を受けない筈はありません。むしろ、子に一番影響を与えているのが親なのです。だから、昔から諺に「親の因果が子に報い」と言っているのです。

親の人格、価値観、行動、観念、情緒など全てが子に影響します。子は親の全てを吸収して自己の人格、観念、性質などの人間性を形成していくのです。だから、親の念波は九割であると言われているのです。

子にとって親とは、父母を意味します。親という概念は子にとっては一体性のものです。従って、両親の仲が悪かったり、価値観が異なっていたりした場合、子供は情緒が不安定になります。父母の意見の対立は、子にとって自己分裂を起こすのです。職業が何であれ、運命・環境がどうであれ、子供にとっては両親が一致していてくれることが大切です。

最近の傾向として、父が仕事だけに一生懸命となり、母が子供の事だけにかまけて、子供を過保護に育ててしまうことがあります。この結果、子供の情緒は不安定となり、子は欠損人格となります。子供自身にストレスがたまってやりきれなくなるのであります。そして遂に家庭内暴力・校内暴力と発展していくのであります。暴走族や非行化していくことも同じ原因です。ただ程度の差と方向性の違いです。

様々な事情によって、片親になってしまった場合は、二人分の働きを子供に与えてください。

子供を立派に育てあげるためには、お金や物質を与えることも必要ですが、それだけでは不十分です。肉体的に子を育てるだけならば、他の動物ですらしていることです。人間の親ならば、両親が一致して人間としてこの世を素晴らしく通る観念や精神を子供に与えるべきなのです。親が自己の人格や観念を子に与えてこそ、人間の親であります。現在、ほとんどの親達が子に物質的なものを与える事だけに関心をもち、自分達が持っている大切な心を与えることを忘れてしまっています。

大人達が、次の時代を担う子供たちの心を育て、人格を高めることを、家庭でも、学校でも怠っているのです。

その為には、まず自らが人格を高め、感謝と喜びを持った豊かな心を開発発展させなければならないのです。自らが心の豊かさをもたずして、子に素晴らしい心や情感を与える事は出来ません。

自らが豊かな心と感動をもってこそ、子に与えることが出来るのです。

子供を授けて戴いた人間の親達にとって最大・最高・最善の仕事は、次の時代の人類である子供たちに精神的財産を与えてゆく事です。

精神的財産とは、悟りと徳のことです。つまり、子供達が良い運命・環境で通れるような良い行いの種をしっかりと蒔いて行くことです。

親が蒔いた行いの種が原因となり、その結果が子供の運命・環境に確実に生えてくるのであります。

親が人格的に崇高であり、親の行いが大自然の真理法則に叶ったものであるならば、親が子に残してあげる運命的財産は素晴らしいものです。

人間の親が残す最大のものは運命的・精神的財産です。「子孫へ美田を残すな」という諺があります。たとえ子孫に物質的財産を残しても、その財産を維持してゆけるだけの力と徳が子供になければ、子供は財産を全て失う結果となってしまいます。

子供自身の手で財産を立派にきずく事が出来るだけの運命的財産を残してあげるのが、親が子に与える最大の財産であります。親の作った物質的財産に執着する子供よりも、自らの力でこの世を立派に生きていける力と徳を持った子供に育てあげる事が、人間の親としての最大の義務です。

子供にとって親からの最大の精神的遺産とは、親が行った人生の事実と、親の人格そのもの名のです。親の行いは事実の種として、子供の人生に必ず運命的に生えてきます。

親のプラスの行いの種もマイナスの行いの種も、必ず子供達の人生にめぐり巡って生えてくるのであります。これが「循環の理法」です。もし、麦という行いの種を蒔けば、好むと好まざるとにかかわらず、気付こうと気付かざるとにかかわらず、絶対に麦という運命の結果がやがて生えてくるのです。

原因を行っておいて、運命・環境にだけは結果が現れない、という考え方は最も非科学的であり、矛盾しています。

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最終更新日  2018.08.18 21:20:38
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2018.07.21

心の観念 (霊的観念)

教えて頂いた事 29

 私たちは人生を旅行をしているわけですが、旅行には出発と終わりがあります。では何の為の旅行でしょうか? 結論は人生旅行で素晴らしさを味わい収穫する為です。

 生きる素晴らしさを収穫させる事と共に、親の意識へ成長することを望んでおられます。

それを人間は、マイナスの苦しみの収穫しかしていません。問題があれば、苦の娑婆だとか、悪の世界だとか、因縁があるからだとか、おもしろくないだとか、つらいだとか、くるしみだとかいい、決して素晴らしいとは言いません。

それに、言葉もマイナスの言葉を使っています。因果応報だとか、自業自得だとか、残念だとか、予期せぬ出来事とか、風上にも置けないとか、必ずマイナスを帯びています。更にストレスといいますが、その反対語はありません。素晴らしい気持ちが、たまってどうしょうもないという言葉はありません。全てマイナスの表現です。

自業自得とは、プラスの言葉なのにマイナスに使っています。もし使うのなら自業自損と表現すれば良いと思いますがその様な使い方がありませんし、辞書にも載っていません。

残念という言葉も、本来は、思いを残すという言葉であるはずなのに、悪い時にしか使いません。何かおいしいものを食べて家に帰ってきたとします。家に帰ってきてからあれはおいしかったな、残念だったなと使っても良いはずなのに、そのようには使いません。

予期せぬ出来事といっても、必ずマイナスの出来事を予想します。予期せぬ出来事といったら、何か素晴らしいことかなという思いはありません。この様に何をとっても皆、マイナスの気持ちの固まりであります霊的観念になっています。

このような意識で幸せに生きようと思っても無理です。意識、つまり霊的観念がマイナスになってしまっています。どうしてもプラスの意識でありますプラスの観念を持たなければ、幸せには通れません。問題があった時こそ、プラスの気持ちで通らなければなりません。

しかし今日、色々な問題が起きた時に、どうしてもマイナスの気持ちであります霊的観念が出てきます。

このようなマイナスの気持ちを収穫すると、それが自分自身の気持ちの固まりである精神、御霊、性格となっていきます。このことを霊的観念といいます。其の人だからその様な気持ちをもつということです。

どうしても問題があった時にプラスの意識で通れる事が出来ますように、日頃からプラスの意識作りが大事です。

そうして、プラスの意識の収穫をして、その様な気持ちの固まりである霊的観念を作り上げるべきです。

そうするといつの間にか、そこを通れるようになっていきます。つまり、いい事をすれば、その様に通れます。これが悟りです。

要するにプラスの意識で通るのか、それともマイナスの意識で通るのか、それが問題であり、その様に通れる徳と悟りが大変大事なことになります

 

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最終更新日  2018.07.21 10:11:20
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2018.04.18

存在の意味

教えて頂いたこと28

 私達が生きていて存在するのにも意味があるはずであります。この世に、意味なく存在しているものはありません。台所の鍋、釜、箸などもすべて役に立つ為に存在しています。この物質の世界でも、生きていくのに必要なものは作られます。それは何の為かというと、役にたつ為です。役に立たなければ淘汰されます。これが自然淘汰ということになります。

 人間の意志で、新陳代謝は行われておりません。全てして頂いております。私達の体内では、1秒間に5000万個の細胞が生まれ変わり出変わりしている事実を認識しなければなりません。

 多くの人はどう生きればよいか、何の為に生きているのかということが、さっぱりわかっていません。五臓六腑もみんな助け合って一個の人間を支えあっているという自然界の法則があるのに、みんな助け合って生きていません。

もうそろそろ、この自然界の事実に気が付いても良い時期ではないでしょうか、そして助け合う生き方が大事なことに速く気が付いて頂きたいと思います。



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最終更新日  2018.04.18 22:28:49
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2018.02.26



 心の発達の段階



 教えて頂いたこと27



私達は生命本来の欲求として、素晴らしく生きて行こうと思っています。しかし、生命の意識の段階が、まだ幼いものは物質的な欲求や肉体的な欲求を満たす生き方をしています。

第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求です。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階です。この段階では生存の価値として魂が、この世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てです。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからです。

第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であす。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずです。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階です。

しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉の辞世の句に「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」といった。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけです。単なるはかない生き方になるだけです。

我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのです。

第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求です。

ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。

とにかく第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものです。

このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求です。

第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが限界があります。

確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質現象界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのですが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすいのです。

第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態です。

現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。

何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからです。

第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階です。

自己の本質であります生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識できる段階であります。他に与えて通る段階、徳を増やしていく段階です。助け合いの、生命の愛の段階です。

生命とは、もともと物質現象界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在です。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元です。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのであります。この事が自己の観念の拡大発展です。

第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことです。

この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものです。

つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が、直ちに其の人自身の心の成長段階を示していることになります。


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最終更新日  2018.02.26 23:58:00
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2017.10.02

苦労は買ってでもしろ
                                                                                教えて頂いてこと26



種類分化の理法
 「十人十色」「田で食う虫も好きずき」「割れ鍋に綴じ蓋」「人みて法をとけ」「豚に真珠」などの種々な諺も、「種類分化の理法」を基にした考え方です。
もし、この世の全ての事柄が、「種類分化の理法」によって異なっていないならば、「十人十色」という考え方は出てきません。
「十人十色」とは、種類・分化されて、この世は存在している事を悟らせる為の一つの例にしか過ぎない。人の顔も、指紋も、浜辺の砂の一粒々も、一つ一つの雪の結晶も、みんな違うものです。
この世は、「種類分化の理法」によって、全て個々の異なったもの(固有性)で成立しています。
「種類分化の理法」で、この世は成立している、という事は、もしこの理法が働かなければ、この世は成立し得ないということになります。
種類分化していく働きを無くせば、食物と非食物の違いも無くなるし、更に種々な物質の違いも無く、分子・原子・種々な素粒子の種類も違いも無くなってしまう。更に又、物質と非物質(物質と形而上的存在)の違いも無くなってしまい、もはやこの世は成り立たなくなります。

「あんな人は見たくない、会いたくない」とか嫁姑が互いに「顔も見たくない」などと見ることに対してマイナスの意識を常に持ち、眼の役割機能に対して否定的な心使いをしていれば、その様な精神波動が潜在的に意識の中に蓄積して、次第に肉体的眼の機能に障害が起きます。耳に関しても同じ事です。耳を使いより良く人様の言うことを聞き分ける事は、理に適った行いです。
理に反した行いとは、自分が一方的いこじな固定観念(ステレオタイプのアイデア)をもち、他人の言う事には耳をかさず、がんとして自分の固定観念だけを押し通すような場合であります。一般的に“つんぼのガンコ親父”といわれるのは固定観念によって、人の言う事に耳を傾けなくなり、耳の役割機能を失った姿です。
お年寄りでも、耳の良く聞こえる人も居れば、聞こえない人も居るという差が出てくる理由は、耳の役割機能を十分に肯定的に使っているか、それとも否定的に使っているかによるものです。
「私は絶対にお前の言うことなんか聞かないよ」とか「そんな事は聞きたくない」と言って、聞けることに感謝がなく、不足していると、耳は遠くなります。

人生において、人が色々の困難な問題にぶつかった時、人は新たなる体験や認識を行います。新しい体験や認識は、自分の今までの考えを拡大し、人生問題を解決する為には、どうしても自分から脱皮して自分の考え、態度、行いを改善改良せざるを得なくなります。「苦労は買ってでもせよ」という事は苦労すれば、するほど、自分の成長発展に結局は還元されるからです。


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最終更新日  2017.10.02 21:28:45
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2017.04.24



事状身状の助かり方



教えて頂いたこと25



誰でも問題にぶつかり、今までに体験、経験しないことに出くわします。そこでどうしたらよいかということになり考え込みます。何故この問題があるのか、どうしてこの時期にあるのか誰もわかっていません。

問題が、人間関係であろうとも、嫁姑の問題であろうとも、金銭、財産の問題であろうとも、仕事上のことであろうとも、会社の上司との関係であろうとも、夫婦の問題であろうとも、家庭内不和であろうとも、登校拒否の問題であろうとも、男女の問題であろうとも、その問題を通じて親の意識に成長する為に、その問題はあります。いつか、何処かで通らなければならなくなっています。

ちょうど先生が生徒に試験問題を出したり宿題を出すのは、生徒をいじめる為ではなく、実力を付かせる為です。私達を親の意識へ成長させるため問題が出されます。親が子をいじめるために問題を出すはずはありません。より良く生きて活けるようにあるのです。

そして助けてくれ助けてくれと、マイナスの引き算のように、おもちゃを買って下さいとまるで子供の様にしてくれ、してくれと要求ばかりしています。マイナスの借金づくりの生き方です。これでは助けてくれと、言った分だけ助かりません。助けてくれと言うのは、自分が助かっていないからいうのです。子供の生き方であります。助かっている人は、有難うございますと言うはずです。

問題になることが起きた時には、その問題は、そのままにして、いじらないことです。それをどうのこうのといって、いじくり回して自己中心の考え方の渦の中に入ってしまい悩み続けてしまいます。

問題を解決する為には、今の持っている徳という運命貯金が足りません。その徳という運命貯金を増やしますと解決します。その為に徳を増やせばよいのです。

そういうこともせず問題を引っ掻き回すと、がんじがらめになってどうにもならなくなってしまいます。人間の力ではどうすることも出来ません。

植物に例えると、人間が種を蒔き、肥料をやり、除草だけ一人分だけの努力をするだけで、後は自然界の創造主が芽を出し、葉をつけ、花を咲かせ、実をつけるという九割のことをして下さいます。

だから一人分、つまり一割の努力で九割のことを親はしていて下さるのです。

このことから、問題はいじらず徳を増やすという努力、言葉でも、お金でも、体を使ってでも、他の役にたつ徳を増やして見ることです。

このような生き方をするとその様な現象が起きてまいります。助かっている人程、更に助けようとします。だから問題があっても助けたいで通りますから、益々助かって生きます。つまりプラスの貯金の生き方であります。親の生き方です。

この様にマイナスの要求ばかりしている生き方は、借金作りの生き方で、マイナスの不徳の生き方であり、段々沈んでいきます。

しかし他の為にとプラスの生き方は、貯金作りの生き方で、プラスの徳のある生き方になって行きます。マイナスの不徳の生き方をすると、類は類をもって集まると言うように「泣き面にハチ」「弱り目にたたり目」と言うことになって行きます。

しかし役にたってプラスに生きる生き方をする人は、どんどん徳が増えて、「笑うかどには福きたる」というふうになって行きます。

要するに問題があった時に、プラスの徳積の他にプラスを与える親の意識で通るのか、それともマイナスの不徳の愚痴、不足、不満の子供の意識で通るのか、それは、自分次第であります。

どうしてもプラスの徳積の他にプラスを与える親の意識で通る為には、日頃から他の為の役にたつ徳を増やしていく生き方をしなければ、親の意識にはなれません。また徳を積む生き方をすると、その徳のある分だけ悟ってきます。

その結果として、必ずプラスの喜びの生き方になっていくように造ってあります。これが事状・身状の助かり方になるわけです。






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最終更新日  2017.04.24 07:03:58
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