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『日本文化主義』尋牛亭日常の箴言

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 長い歴史ある日本と違い、中国とは異なる周辺民族よる殺戮支配が繰り返され、現在はハッチワークのように他民族を人権無視で無理矢理、共産党が束ねている国家という認識が正しい。

 中国や韓国とは究極のグローバルの格差社会で、汚職や賄賂も多く、既得権者たちが内政の失敗をごまかすため民度の低い反日国家になってしまっているようだ。多くの善良な人々が不幸ですね。


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わが国は、建国の理念にたちかえり、家族国家を取り戻すこと。そのために、ひとりひとりができることをする。それが日本の日本人が、すべきことなのではないか。大東亜戦争の教訓と体験に学び戦死した人々を無駄死にさせないようにするためには国益のため『日本文化主義』の文化防衛という考え方でリーダシップのある類い稀な資質、明確な目的意識とアイデアを持った首相(大統領制にした方が国際社会に政治的アピールもよいのだが、いまの政治家たちは分かっていない)になってもらいたい。『
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2009年07月11日
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 故松下幸之助翁は日清戦争が始まった1894年(明治29年)和歌山県海草郡和佐村(現在の和歌山市)で生まれた。8人兄弟の3男で末っ子だった。もともと家は裕福な地主だったが、1899年(明治32年)当時よくあるパターン、父が米相場で失敗した。小学校を4年でやめ、わずか9歳で大阪へ丁稚奉公に出ることになった。その時、1904年(明治37年)11月23日「紀ノ川駅のホームで汽車に乗り込むまで、涙を浮かべて「からだに気をつけて先方のご主人にかわいがってもらうんやで」と手を握りながら念じるように言い聞かせてくれた母の手の温もりと、ずっと私が見えなくなるまでホームで見送ってくれた母の姿は生涯私の心にしみじみ脈々と生き続けている」と後に語っている。大阪に借家住まいで一緒に住み始めたとき「実業こそがお前の進むべき道だ」とアドバイスしてくれた父、松下政楠氏は、ふとした病がもとで幸之助氏が11歳のとき1906年(明治39年9月)享年51歳で急逝、愛情深い母、松下とく枝さんは、その7年後、幸之助氏が18歳のとき亡くなっている。不幸はさらに続き、7人いた兄姉も彼が20代のころには、皆、亡くなっている。最後まで一緒にいて松下家のためにも結婚を急ぐよう諭してくれた、長姉(大阪貯金局勤務・結婚している)も亡くなっている。原因は多くが結核で自身も体が弱くよく風邪を引いた。実際に彼は若くして人一倍仕事熱心だったこともあり、肺尖カタル(結核の初期症状)を病んでいる。松下家には親戚はなく、若くして天涯孤独の身になってしまった。さらに結婚後には一男一女(幸一と幸子)を授かったが、1927年(昭和2年)幸之助氏32歳のとき、幼い一人息子幸一を生まれて半年足らずで病気で亡くす不幸があった。さらに創業以来、共に苦労をして事業拡大した松下電器具製作所だったが、戦後、妻の弟、井植歳雄が袂を分かち、三洋電機を創業したことも原因となってか、妻(旧姓・井植むめの)との不仲も、半ば公然の秘密だったが、晩年になって「すまなんだ、と反省しているんですわ。この年になって初めて妻の苦労がわかった」と語っている。

 ところで、商都大阪に出てきた幸之助氏は、大阪市南区八幡筋(現在の中央区西心斎橋二丁目)の宮田火鉢店が3ヵ月でたたまれたため、親方の紹介で、船場堺筋淡路町(現在の中央区淡路町二丁目)の五代自転車店(5年4ヶ月)で奉公した。その後、1918年(大正7年)に23歳で町工場松下電器具製作所を創業、妻むめのと義弟の井植歳雄(戦後、三洋電機創業)の三人で苦労しながらソケットなどを製造販売した。それから二十数年、順調に事業拡大を続けたが、初めて打撃となったのが第二次世界大戦だった。戦時中木造船や木造飛行機の生産に乗り出した。(さすが幸之助氏と言うべきか三菱重工のエンジンを搭載した木造飛行機を4機完成させている)軍部の圧力による協力が仇となり、代金は入金せず戦前には2千万円(今の2千億円にも相当する)あった個人資産が戦後になって、銀行からの借入金7百万円だけが残った。さらに戦後の一時期GHQから「財閥家族」「公職追放」などの指定を受け、物品税も納められず、世間からは「滞納王」と蔑まれるという苦い経験をしている。これも松下政経塾を設立した大きな理由になっている。

 幸之助氏は以前から考えていたが独断即決というタイプではないので、高齢になって設立した。財団法人「松下政経塾」(まつしたせいけいじゅく)は1979年(昭和54年)6月21日に設立し、1980年(昭和55年)4月1日開塾した。吉田松陰先生の「松下村塾」(しょうかそんじゅく)の昭和版として「経営の神様」当時の松下電器産業株式会社代表取締役社長の松下幸之助氏によって私財70億円(20億円を建築費に残りの50億円が運営基金)を投じ、神奈川県茅ケ崎市汐見台5番地25号(旧「ナショナル学園」松下電器の販売研修所跡地)に設立された。ここは、富士が望め天下国家を語るにはもってこいの場所、政治の中心である東京にも1時間という立地で選ばれた。敷地は6千坪以上、塾舎だけで2千坪に及び塾内には最大で150名の塾生が生活できる寮に加え、職員用の家屋、食堂、幸之助用の茶室、日本庭園、テニスコートがある。しかし、これだけの施設を実際にはあまり使っていない。欧米のビジネススクールというより、学問の研究施設を連想させる。頭だけの政治家、経営者を養成するところではなく、海外へ出かけて研修したり、行動力も養っていくことだった。それはトップリーダーは『運と愛嬌』と坂本竜馬や高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山形有朋など志士のように『(命がけの)覚悟と(素直に人の話を)聞くこと』が出来ることが大切で自主独立の精神で研修し、現場で学ぶ実践主義の考え方が強くあった。

 創立当初、数年間の顔ぶれは(以下敬称略)理事長(塾長)松下幸之助、副理事長(副塾長)に丹羽正二(松下電工会長)、宮田義二(鉄鋼労連会長・金属労連議長)。顧問は茅誠司(元東大総長)、芦原義重(関経連名誉会長)、佐伯勇(近鉄会長)、奥田東(元京大総長)。相談役は堀田庄三(住友銀行相談役)。常務理事に久門泰(政経塾常勤)、緒方彰(元NHK解説委員)、牛尾治朗(ウシオ電機会長)。理事は中山素平(日興銀特別顧問)、日向方斉(住友金属会長)、大来佐武郎(外務省顧問)、横井克己(裏千家常任顧問)、塚本幸一(ワコール会長・社長)、千宗室(茶道裏千家家元)、草柳大蔵(評論家)、曾野綾子(作家)、香山健一(学習院大教授)、高坂正堯(京大教授)。そして監事に新井正明(京大教授)、後藤精一(三洋電機相談役)、高木文雄(弁護士・横浜みなとみらい21社長)。評議員に浅利慶太(劇団「四季」代表)、内田健三(法大教授)、稲森和夫(京セラ会長)、江戸英雄(三井不動産会長)、小川鍛(松下電器客員)、加藤寛(慶大教授)、上坂冬子(評論家)、唐津一(東海大教授)、渋沢雅英(MRAハウス代表理事)、宗左近(法大教授)、鶴田三雄(松下電器顧問)、長洲一二(神奈川県知事)、樋野正二(松下電器客員)、林健太郎(参議院議員)、松園尚巳(ヤクルト社長)、宮城まり子(ねむの木学園長)、森政弘(東工大教授)。特別参与は北村武(朝日ホスピテル代表相談役)。参与には江口克彦(PHP研究所専務)。一方、講師陣は政経塾には常勤はいない。しかし、他にいつでも必要に応じて駆けつけてくれる特別講師に安岡正篤(全国師友協会会長)、井深大(ソニー名誉会長)、大山康晴(将棋連盟会長)、小松左京(作家)、小山五郎(三井銀行相談役)、堺屋太一(作家)、下河辺淳(総合研究開発機構理事長)、高畑敬一(松下電器取締役)、立花大亀(大徳寺最高顧問)、堤義明(西武鉄道社長)、永田敬生(日立造船取締役相談役)、中村俊男(三菱銀行会長)、長谷川周重(住友化学相談役)、山田無文(前妙心寺管長)、山本七平(山本書店店主)。客員講師に会田雄二(京大名誉教授)、エズラ・F・ヴォーゲル(ハーバード大教授)、ジョン・K・ガルプレイス(ハーバード大名誉教授)、林修三(元内閣法制局長官)、飯田経夫(名大教授)、片岡寛光(早大教授)、木村尚三郎(東大教授)、木村治美(エッセイスト)、公文俊平(東大教授)、小池和男(京大教授)、佐藤誠三郎(東大教授)、佐藤隆三(ニューヨーク大教授)、外山滋比古(お茶の水女子大教授)、中根千枝(東大教授)、西尾幹二(電気通信大教授)、花井等(筑波大教授)、矢野暢(京大教授)、渡部昇一(上智大教授)、石井英夫(慶大教授)、梅棹忠夫(国立民族学博物館長)という爽々たる各界有識者を揃えた。

 政経塾の設立後、幸之助氏が京都東山山麓に所有していた別邸「真々庵」(別邸といっても真々庵は2千坪の広さがあり、庭園は明治期を代表する庭師・小川治兵衛の作で、京都府から文化財にしていされた貴重なものだった)を等価交換で手放している。さらに文部省(当時)から要請もあり、松下グループが1980年から1987年までの7年分割(グループの中では景気の悪い会社もあったので)50億円を出資した。これで合計100億円で財団を運営することになった。これが幸之助翁という看板失った政経塾の立て直しに娘婿の二代目松下電器産業社長・松下正二氏の後を受け、三代目松下電器産業の社長・山下俊彦氏の政経塾立て直しの抜擢人事(山下跳びと話題になった)により、二代目塾頭・上甲晃氏(40歳)「地域から日本を変える運動」(にちか運動)を提唱した。その上甲氏にも認められ1994年4月1日三代目塾頭・岡田邦彦氏(1期生)は(特にスーパーエリート集団と評された1期生の中でも明晰な頭脳と幅広い知識で他を圧倒し、幸之助に一目置かれる存在だった。政治家志望の連中が岡田氏を嫌った。政治家志望重視の構想を一変させたことと、東大法学部卒泰然とした態度に嫉妬があった。小生は、湯河原で昼食を共にしながら天下国家の話すが、幅広い知識と国際情報が面白い。彼の友人の手嶋龍一氏(元NHKワシントン支局長)の紹介で手嶋氏と半々の時間を受け持った早稲田大学大学院客員教授ではもったいない気がする。是非、国のため国政に打って出てもらいたい人物である。彼は上甲晃氏の後任の塾頭として政経塾を運営したが、既に塾内の軋轢が生じ、当時はバブル崩壊し低金利による財政難となっていた。苦労多く、合計100億円の資金と縮小させた塾の運営により、よく現在に継承されている。

 幸之助氏にとっては、いくら商売で成果を上げても、政治がコケれば社会全体が悪くなることが証明された経験から、政治家に任せているだけではダメだと考えるようになり、『右手にそろばん、左手に政治』ということを言い始めた。さらに国民が政治に関心を持つようPHPで啓蒙活動を始めた。以降30年以上も啓蒙活動を続けたが、晩年になって、日本の政治は幸之助氏の願う方向に進まなかった。若いころ1925年(大正14年)町内会の有志に推され大阪市の連合区議会議員選挙で2位当選を果たし、大阪市区会議員の経験もある幸之助氏に、中曽根首相(当時)から自民党公認で国政にと要請されたが、(新党構想もあってか…)年齢を理由に断った。そこで新しい若いリーダーを育てるため(幸之助氏はトップリーダーとは坂本竜馬高杉晋作たち幕末の志士たち、明治維新の為政者たちのように、『覚悟とよく聞く』ことが大切と言っている)、21世紀の日本を良くしていこうとする有為の青年を募るため「松下政経塾」という(地盤・看板・鞄のない、サラリーマンの子息でも)すぐれた為政者(一応、すぐれた企業経営者も…)の育成のため、「政治家養成機関の設立」という結論に達した。もう設立してから30年が経過した。現在、理事長(塾長)に佐野尚見氏、常務理事(塾頭)は古山和宏氏(3期生)が引き継いでいる。合計卒塾生は237名(うち女性30名)になる。衆議員、参議員、首長、地方議員に多数当選している。2009年(平成21年)4月1日には16名(うち女性1名)の塾生が入塾した。これからも1989年(平成元年)4月に生涯をとじた松下幸之助翁(享年94歳)の遺志により前途有為の青年たちを将来の為政者に育成し、日本国のため(1期生も含み24期生神山洋介まで)松下政経塾が国や首長や地方で活躍する人材を送り込むことであろう。







Last updated  2009年08月31日 11時25分44秒
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