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カテゴリ:『日本文化主義』のために箴言(しんげん)
ナポレオンからヨーロッパを解放したにもかかわらず、ヨーロッパはロシアを対等とは見ずに正当な評価を与えていないという不満は、1800年代のスラブ民族主義者や軍人の中に募る一方だった。
この気分は、現在のロシアも想起させる。第2次世界大戦(ロシアでは「大祖国戦争」とも呼ぶ)で大きな犠牲を払いながらナチス・ドイツを降伏に追いやったソ連の功績が西側で軽んじられ、どう頑張ってもヨーロッパ社会に入れないという焦燥・不満・落胆が沈澱する気分--これは、200年前とどうやら変わっていない。 西欧派と民族主義の対立概念は、後の共産主義革命にも結びつけて論じられた。共産主義思想がもともとヨーロッパで生まれたものであることを理由に、革命を起こしたレーニンの思想を西欧派、これを継いだスターリンのそれはスラブ民族主義だとか。 ロシアの劣等感を払拭させた共産主義革命グルジア人のスターリンがどうしてスラブ民族主義になるのか、などと疑問を呈せばきりがない。どうにもこじつけの感もある。 だが、その起源が西欧派であろうと民族主義であろうと、後の共産主義革命の勃発がロシアの後進性意識や劣等感を一挙に覆えしてくれたものであったことも確かだろう。共産主義をヨーロッパに先駆けて実現したのはロシアだ、だからロシアの方が先進国になった・・・。 もっとも、それが起こるまでは、レーニンの革命思想(帝国主義は資本主義の最終段階、だから今すぐプロレタリア革命を!)はヨーロッパの左翼陣営から、その後進性ゆえの過激派として評価されていなかった。そう、左翼運動においてすらロシアは後進性の問題に苛まれていたのだ。 話を19世紀に戻すと、自らも後進国という屈折したロシアのメンタリティーは、当時のその対外拡張の中にも表れているように思える。 司馬遼太郎はロシアの侵略の性格について、相手の弱みにつけ込むことを旨とし、従って統治が完備している国は侵さない、つまり国力を傾けてまで侵略しようという気はない、といった趣旨のことを述べている。 裏返せば、相手が弱体化しているならいくらでも侵攻を繰り返すということになり、アムール河左岸や沿海地域のみならず、満州や、清が宗主国となっている朝鮮半島に次の照準を定めていくのも、清の衰退が誰に目にも顕著であったからだろう。敵が止まればこちらも止まり、敵が退いたらこちらは進む、とはどこかで聞いた策である。 この司馬の指摘をもう少し突っ込んで考えてみると、自分にとって必要だからどう犠牲を払ってでも対象を手に入れよう、という切迫感がロシアには欠けているように見える。 それよりも、人がやるから負けてはいられない、という他動的な行動パターンが目についてしまう。要は、他人に置いていかれるという焦りや恐怖にも似た気持ちに駆られての真似ごとである。 その焦りや恐怖とは、ロシアがヨーロッパの対中蔑視観に便乗しても、ロシア自らはヨーロッパの中で異質な国と見られ、あるいはその数にも入れられず、これまで述べたようなヨーロッパの中の後進国として扱われることへの苦痛や屈辱と裏腹だろう。 そうであれば、明治維新以来の日本にもよく似ている。一度として自分が世界の中心だ、という気持ちを疑いなく持てたことがなかった。これを歴史の(負の?)遺産と呼ぶなら、たぶんそれが現在でもロシアと(あるいは日本と)中国の、それぞれの根底に流れるものでの大きな差異につながっていく。 この傾向は国家のような大組織になればどこでも、であり、ロシアに限ったものではない。日本にも関東軍の所業があった。だが、連絡網が常に延び切ってしまうロシアでは、それは特に顕著だったはずだ。 西から極東へ勢力を伸ばす中で、出先が中央の意向とは半ば無関係に動けるような習慣らしきが、それこそエルマークの時代からロシアには出来上がっていた。 サンクトペテルブルクからヴラジヴォストークまで電信が開通したのは1860年代の末だったから、それまでは中央からの出先に対する遠隔操作は困難を極めたに違いない。 そして、電信が開通しても現場は現場の判断で動くというスタイルは、実際にそう簡単には変わらなかったのではなかろうか。これは今日のロシアでも往々にして見受けられる行動パターンである。 人に遅れまいとして、パイの分け前を求めて上が金切り声で叫べば、下は下でその声を勝手に解釈して自分で動き出す。清は不幸にして、そうしたロシアに版図を侵されていったのだった。
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Last updated
2013年02月15日 22時51分06秒
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