尋牛亭日常■「南樺太から千島列島まで北方領土でその最北の占守島でのこと」
千島列島最北の島占守島(シュムシュ島)において終戦のどさくさにまぎれてソ連の騙し打ちがあった。すでに島の高地は占拠されてしまっていた。それに対して池田少将率いる戦車隊が士魂で応戦して殲滅(せんめつ)するところまで海岸に追い詰め防衛した史実があった。本来からいえば北方四島はもちろん、南樺太(半島南半分)から千島列島(アリューシャン列島)までが、本当はわが国の北方領土なのである。 東南アジアや西アジア・インドなどの国々と(軍事同盟)=核抑止力をつけて多方面平和外交と拒否できるように国防省と国軍を持つ日本に=ロシア人や中国人や韓国人が日本とは戦いたくない高性能最新兵器を多く所持しロシアや中国や韓国政府から軍事力でバカにされない技術大国日本国の再生 それはソ連軍がヤルタ会談の裏合議で決まっていたとされることは履行されないと、米英の強かさを知っていて信用できず、宣戦布告もせずに北海道の半分まで取る戦略計画のため、カムチャッカ半島から奇襲した事件があったのだ。千島列島の最北の島、占守島を一日で占領できると侮り4日間の激戦になりそれ以上侵略できなかった事実があったことを心ある日本人なら知ってほしい史実なのである。 占守島には日魯漁業の缶詰工場があった。日魯漁業といえば、いまは名前が変わって株式会社ニチロ。さばの缶詰や冷凍食品などで、おなじみの東証一部上場の会社である。その日、魯漁業の従業員2,500人が、昭和20年8月の終戦のとき、アリューシャン列島(千島列島)の先端、カムチャッカ半島のすぐ手前にあるシュムシュ島(占守島)にいた。 戦時中に莫大な量の糧食を日本軍のために外地に補給していたのだった。なかでも、この占守島で生産される魚類の缶詰は、貴重なタンパク源として外地で戦う日本の軍人たちにとってなくてはならないものであったのである。その工場の従業員の中には約400人の若い女子工員も混じっていた。 終戦を迎えた昭和20年の8月15日から3日目、8月18日の午前1時のことです。突然ソ連軍がこの島に対岸のカムチャッカ半島から猛烈な奇襲砲撃をしかけ、奇襲部隊を上陸させてきました。宣戦布告もなしに攻め込んできたのです。この島を守るのは日本軍の第91師団だった。師団では、15日の終戦を受け、武装解除の準備をすすめていた時である。守備隊は戦車からは車載銃砲や無線機を取り外し、様々な機材は爆砕し、またもう使わなくなった車両などは、海に没げ捨てる準備まで進めていた。さらに17日の夜は、全部隊や住民など、みなで酒を酌み交わして、別れの挨拶をし、各自布団に入り、就寝についた時なのであった。 ところが、寝床にはいって、そろそろ眠りについたかな、という午前1時、突然対岸のロパトカ岬からソ連軍が猛烈な長射程重砲砲撃をしかけてきたのです。さらに追い打ちをかけるように、占守島国端崎の監視所から「海上にエンジン音聞ゆ」と急電が入った。降伏に関する軍使なら、夜中に来ることはありえない。「これは危ない」と判断した日本軍は、島一面が濃霧に包まれた中で、急いで戦闘配備を整えたのである。 その間にも、「敵輸送船団らしきもの発見!」「敵上陸用舟艇発見!」「敵上陸、兵力数千人!」等と、相次いで急報が入った。 戦争は終わったはずなのにである。当初、応戦を逡巡していた日本側も、ここまでくれば、放置したら皆殺しとなってしまうと判断。とりわけ占守島には、2500人の民間人のニチロの社員たちがいるのです。しかもそのうち400人は、女子工員たちがいた。 ソ連軍の騙し討ちにあい、すぐに島の高地を占拠されていたというわけである。やむなく第91師団では、国端崎の砲兵、竹田岬と小泊崎の速射砲・大隊砲が協力して反撃を開始した。さらに陸海軍航空機による決死の反撃を行い、重砲によって敵部隊への砲撃も行ったのである。激戦の中、第91師団の参謀長と世話役の大尉は、ニチロの女子工員のことを気遣い、「このままでは、女子行員たちは必ずソ連軍に陵辱され被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返さなければならない。」と二人はそう申し合わせると、すぐに部隊に命じ、島にあった20数隻の漁船に女子工員約400名を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させたのである。ソ連航空機による爆撃が続く中であった。 第91師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして、爆撃機を追い払いった。敵上陸部隊にも集中砲撃を行い、海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けにするという戦略で阻止した。戦いは4日間続き戦闘は激烈を極めたのだった。 果敢にも、日本軍の死傷者約 600名、民間人400人。ソ連軍の死傷者約3,000名。第91師団は、敵ソ連軍を圧迫し、士魂のもと池田隊長率いる戦車隊がソ連軍を海岸付近に釘付けしたのである。ソ連兵を一歩も内陸に前進させなかったのである。それどころか、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅(せんめつ)するところまで追い詰めたのであるが律儀で気まじめな日本人の性格が負の方向作用し、今の北方領土問題も残ってしまったのである。 勝っていたところが、8月21日、島に第五方面軍司令部から停戦命令が届いたのだ。律儀な第91師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いている中にもかかわらず軍使を派遣した。そして自ら進んで停戦交渉を進めてしまい、戦闘を終結させたのだ。それは禍根を残す日本人の生真面目さの欠点でもあった。第91師団のもとに、女子工員たちが「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、戦闘終結の翌日のことだった。第91師団のみなの、この報を受けたときの喜るびはいかばかりだったか想像すると涙が出てしまうのである。 ←いつも有り難うごさいます やっぱり、占守島にいた日本人約25,000人は、武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって民間人を含めて全員逮捕された。その2万5千人は、シベリアに到着した時点で人数が5000人に減っていたというのだ。途中で理由なく殺されたのである。生き残ってシベリアに抑留された人たちも、厳しい寒さの環境の中で2年間抑留されたのだ。強制労働や飢えと寒さに栄養失調のために約1割の尊い命が亡くなった史実もあることを忘れてはならないのである。 なぜ、ソ連は、終戦3日後に強襲上陸進攻を強行したのか。それまで千島列島に配備された日本軍に対する攻撃は、米海軍によって行われていた。終戦3日前の8月12日には、温禰古丹島から占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出していたのだった。つまりこの地域には、米軍による戦闘実績があったからなのである。 ソ連は、ヤルタ会談の秘密協定で、米英から千島列島をソ連に引き渡すという言質は得ていたというが、ソ連もしたたかで日本固有領土の千島列島を、米英がそうそう簡単にソ連に引き渡すかは、はなはだ疑問と考えたのだった。ソ連は自らの戦闘実績をつくり、自力で千島を占領しようとしたのである。 そのため彼らは日本がポツダム宣言を受諾した後の8月15日からあわただしく戦争の準備し、奇襲上陸して騙し討ちしてきたのである。 ソ連はその後、米国に対して北海道の分割統治の要求を行ったが、受け入れられず、これは、ソ連がもし千島侵攻が成功していれば、計画通り。一気に北海道まで侵攻し、領有しようとする意図があったということを示していた。さらにソ連は、占守島のは占領を1日、と計画していた。たった1日で、占守島は占領できると彼らは踏んでいたのだが占守島の第91師団は、そうした彼らの目論見を、見事に粉砕したのだった。 ソ連の上陸軍を殲滅寸前まで海岸に追い詰めただけでなく、敵を「一週間にわたり」、島に釘づけにしたのである。この戦いは、この「一週間」が、北海道の命運を決定付けたのだった。 ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、米軍が、北海道進駐を完了させたのである。その結果、米軍の北海道進駐によって、北海道は、ソ連軍の侵攻を免れた。そのために、ドイツや朝鮮半島のように、北海道が米ソによる分割統治になるという事態が避けられたのである。 逆にいえば占守島第91師団の勇敢な戦いがなかったら、北海道は千島や樺太の南半分と同様、日本国は「帳面上」の領有権を持つだけで、いまごろはまだロシアによって実効支配されていたかもしれないのだ。 余談だが、占守島に上陸してきたソ連兵は、日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうだが、あとの祭りであった。 もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったら・・・占守島の第91師団の決死の応戦がなかったのなら、彼らは、終戦を迎えた後にも、士魂にての戦車特攻と云う類い稀な戦法で身を持って卑劣なソ連の進行を妨げてくれたのだ。彼ら第91師団は、ソ連軍占領予定地点の北海道中部まで本土上陸を阻止ししてくれたのである。彼らは、多くの婦女子を占守島より脱出させてソ連兵による陵辱から守り通してくれました。彼らは、上陸しようとするソ連軍を水際から一歩も踏み入れさせず、勇敢に戦ってくれた。彼ら占守島の第91師団は、私たちに北海道を残してくれたのだ。 彼ら第91師団のおかげで、現在、北海道は全域が日本なのである。北海道産のいろいな物産、おいしい食品を食べることができるのは占守島の第91師団の決死の戦いがあったと云う事実と、国家意識による勇気とそのご恩を決して忘れてはならないのである。北方四島(歯舞島・色丹島・択捉島・国後島)はもちろんのこと樺太の南半分から千島列島も本来は日本の領土なのだ。これからも敵となって戦う国は、日本国の戦争力を侮ってはならないことを知るべしである。←ブチっとありがとうございます【Today is the first day of the rest of my life!】