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テーマ:最近観た映画。(40085)
カテゴリ:映画
この間「夕凪の街 桜の国」という映画を観てきた。事前には何の映画だかまったく知らず、田中麗奈がでてるくらいしか知らなかったのだが、意外にいい映画。
でもこれをアメリカ人に説明しろと言われれば非常に難しい。 なぜって、戦後13年後の主人公、ミナミは、「ピカ(この表現は時代を感じさせますねえ)は(落ちたんじゃなくて)落とされたんよ」といいながら、反米か?と思うと、そういう闘争心はそこにはない。原爆を落とした人が落とした地点にいる人たちが「死ねばいいと思っている」ので、自分が死ねばもう一人(13年かかったが)やっと殺せた!と思っているに違いない、「死ねばいいと思われる人間になることに気づくのが怖い」というこの心境。 アメリカ人なら、単純に殺した相手を殺し返せになるところなんだけど。そして、できないなら、もう二度と殺されないように、万全の体制をとろうという思考になる。が、なぜ、外(アメリカ)ではなく、内(自分)に矛先を向けるのか? 別に心理学者でもないし、宗教学者でもないので、答えは分からない。 けれど、他にもかろうじて生き延びた人たちの言葉にも、「生かせてもらっている」、「なぜ(あいつは死んで)私は生きているのか」を自問するなどなど、原爆投下は100%人為行為以外何者でもないのに、思考の矛先はみんな自己に向かう。 もちろん、みんながみんな、そうではない。石原慎太郎みたいなタカ派はもちろんいるし、戦争に関してはアンチ・アメリカンむき出しな発言はしている。 けれど、そんなタカ派の言葉よりも多くの人たちはそういう言葉をはかない。なぜ?占領下のアメリカ兵はそんなに態度がよかったんか?(違うねえ)占領下の言論統制があまりに厳しくていえなかったから?(多少はあるかも。占領後はいわないのがくせになったから?)二度とアメリカと戦うことはないから、敵を討てないという諦めから?(微妙)敵をとろうと思うこと自体戦争につながるので、戦争はもうこりごりだから恨みは捨てよう?(ままあるかも) それとも、仏教普及のおかげで、無常観、諦念をもってしまった?(かなりあるかも) けれど、戦争は人為行為(もともと競争心が人間にあるのは万国共通であるのは、自然が人間に植え付けた性質だというのなら、まあ自然行為なのかもしれませんが)。なので、避けようと知恵を絞り、死に物狂いでがんばれば避けられる性質のもの。登山途中の雷に打たれるとかそういう無作為な自然の行為ではない。 そもそも、岸信介のいうように、東南アジアへの制海権、制空権を奪われた時点で日本に石油がなく、自滅以外の道がないことが判明した時点で降参しておけば、本土の被害はかなり小さかったはず。分かっていることを敢えてみず、それをずるずると止められもせずにいただけでも、当時の日本の上層部の責任は重大だが、この無作為も十分、人為行為だ。 なので、怒りの矛先を向ける相手は国内にちゃんといるのに、東京裁判なんて茶番劇で許してしまう、おおらかな国民。「一億総懺悔」なんて意味不明な言葉で水に流しちゃう。 多分、そこには、考える(二度と戦争に合わないよう知恵を絞る)前に、感じること(無常観、諦念など)が先にたつ、精神構造が強いように思う。 そして、感じるだけでちゃんと考えないから、今平和ボケといわれ、安全保障を考える日本人はほんの一握りだ。欧米のような超攻撃的な人間が覇権を握っているのに、自国の安全をほとんど考えずにいる人ばかり。いいの、日本?まあ、だから歴史問題も根本的に解決しないのだろう。 だが、「考える前に感じる」のは、すでに文化の域なのだろう。日本文化はすべて「感じる」ことに行き着く。古典芸能はすべて行き着くところは美の境地。日本人が感じる究極の美の形を求め、伝えている。武士道も、どう美しく生きるか、死ぬかにまで高められたし、行儀作法もまた然り。 最後に、戦争は、確かに合法的殺人行為ですが、職業軍人は少なくても恨みつらみで人を殺しているわけではない。個人的感情は何であろうと、最高司令官から戦争終了と合図があれば、その時点で一切の殺人行為は非合法となる。 なので、原爆投下から13年間ずっと上記のように思い続けた、ミナミのことばはあまりに切ない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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