2010/04/04(日)00:52
無縁社会と言うけれど
NHKで以前放送された「無縁社会」の、
フォロー番組にあたるドキュメンタリが今夜、放送された。
家族のいる中でチャンネルを合わせて見ていたけれど、
いたたまれなくなって変えてしまった。
孤独、孤独と言うけれど。
無縁、無縁と言うけれど。
人とのつながりは、ちょっと踏み出せば作れるものだ。
看取ってもらえるかどうかなんて保証はないけど、
自分からつながろうとしない人が嘆く孤独は嘘くさい。
誰かが、いつのまにか、仲良くなってくれると思ってるんだろうか。
ある人などは、食事は殆ど毎日外食だと語っていた。
あれ、と私は引っかかる。
毎日外食などしていたら、友だちが出来ないほうがおかしいじゃないか。
私は寂しいとき、ランダムに他人と知り合いたいときにひとりで外食するぞ。
しかし、その後のナレーションにかかる映像が吉野家だったので、
ちょっと納得した。というか、仕方がないかな、と思った。
機械的にこなされるあの類のチェーン店で、人のつながりが生まれるとは思えない。
可能性はいつだってゼロではないけれど、簡単ではないだろう。
そして気づく。
自分が、「個人店好き」だったことに。
個人で経営している店は、ともすれば面倒なこともある。
常連さん同士が、とか、マスターの機嫌が、とか。
でも、ひっくるめて振り返ればそんな人間付き合いに救われるのだ。
ネットで色々便利になって、バーチャルつながり感がはびこって、
生身のつながり方を忘れてしまったんだろうか。
あるいは、それが面倒になってしまったんだろうか。
生の人間関係を築かずには生きてゆけない一昔前から、
取り立ててそんなものなくとも一応は生きてゆける現在。
無縁死は無縁死でひとつの問題として提議することは認める。
でも、無縁社会とはやし立てて煽っていくのは違うと思う。
こればかりは単純に、行動の問題である。
「無縁社会だって」が呼ぶ共感がネット上のものだけであれば、
そこには具体的な進歩も希望も何もないのだ。
さらに、「無縁社会こわい」と共感しあう人々は、
大抵こぞってネットの世界に重きを置く住人なのである。