ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

2015/12/02(水)10:26

文法家列伝:時枝誠記編(補論)(1/3)

言語学(310)

〈目次〉 (1)「文法家列伝:時枝誠記編」に欠けたるものとは (2)時枝は言語を過程として捉えるために視点を上昇させた (3)時枝言語学を言語研究の歴史に位置づける --------------- (1)「文法家列伝:時枝誠記編」に欠けたるものとは  本稿は、今年5月15日から5回にわたって本ブログに掲載した「文法家列伝:時枝誠記編」(以下、「本編」という)の内容を大きく補っていくものです。  本編では、時枝言語学の歴史的意義を明らかにしました。端的にいえば、時枝言語学は「言語を表現主体に取り戻した」といえるのだ、ということでした。これは一体どういうことだったのでしょうか(以下、本編の内容を概観しますが、詳しくは本編自体を参照してください)。  17世紀までの言語論は、大きくまとめるならば、言語と対象とのつながりの間に表現主体の認識の存在を認めていった過程でした。つまり、対象と言語を直接結び付けていた従来の考え方から、対象と言語との間に認識が介在することを把握していった言語論へ、という大きな流れがあったのです。しかし、18世紀以降、比較言語学・歴史言語学が言語学の主流となっていきます。比較言語学・歴史言語学というのは、簡単には、親縁関係にある諸言語を比較することで、どのような音韻変化が起きたのか、共通する祖語はどういうものであったのかを明かにしようとするものです。これらの言語学においては、言語は人間から独立した有機体として、それ自体が生成、発展、消滅するものとして捉えられていたのでした。その結果、言語学を音韻変化の法則に関する学問にまで矮小化してしまうこととなったのでした。ここにソシュールが出て、音韻という言語の物理的側面を通時的に見るのではなくて、言語の社会的側面を共時的に把握する「ラング」の言語学を提唱したのでした。ソシュールは、言語を個人とは別に存在し、個人に対して拘束力を持つ社会的事実だと捉えたのでした。つまり、18世紀以降の言語学においては、言語を表現主体(個人)から切り離されたものとして研究していたということです。  20世紀の日本において登場した時枝は、こうした言語と表現主体との断絶を否定し、両者を結びつける役割を担っていたのでした。時枝は、「言語は、思想内容を音声或は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体である」(『国語学原論(上)』p.13)と規定し、具体的な言語が話される(書かれる)過程、聞かれる(読まれる)過程をこそ問題にしたのでした。具体的な言語を問題にするということは、とりもなおさず、その言語を発した表現主体とその言語とのつながりを大きく意識することになります。時枝は、音声や文字として表出されるまでの過程として、「具体的事物(表象)」から「概念」へ、「聴覚映像」へという表現主体の認識の流れを図で示し、言語とは概念と聴覚映像とが結合した「精神的実体」だ(概念と聴覚映像とはもともと結合しているのだ!)と捉えるソシュールの「構成主義的言語本質観」を批判し、ソシュールが多様であり混質的だとして究明を放棄した「言語主体がその心的内容を外部に表現する過程」(『国語学原論(上)』p.9)こそ、言語学の対象だとしたのでした。  このように時枝は、具体的に言葉を話したり書いたりする表現主体(個人)の考察を抜きにして、言語を音韻変化の法則として、あるいは社会的事実として、捉える方法は間違っているのであって、言語は何よりも表現主体が辿る過程として捉える必要があるのだということを強調したのでした。これを本編では端的に、「時枝は言語を表現主体に取り戻した」と述べておいたのでした。  その後、我々京都弁証法認識論研究会の例会の場で議論したり、言語研究史の大きな流れを考察したりする流れの中で、この本編の結論を大きく補っておく必要があることが分かってきたのでした。それは一体、どういうことでしょうか。  端的にいえば、17世紀に登場した『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論と時枝言語学とは、同じなのか違うのか、ということです。17世紀までの言語学においては、対象と言語とのつながりの中に、認識というものが存在しているのではないかということが徐々に明らかになってきたのですが、その成果が結実したのが『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論でした。ですから、「時枝は言語を表現主体に取り戻した」などという以前に、『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論において既に、言語を表現主体(の認識)とのつながりにおいて捉えていたのではないかということです。そうだとすると、『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論と時枝言語学とは同じことを主張している、つまり時枝は17世紀に既にヨーロッパにおいて到達されていた段階に、20世紀になってやっと日本で達したに過ぎないのではないか、ということになるわけです。  しかし結論をいえば、そうではないのです。すなわち、『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論と時枝言語学とは違う内実を含むものなのです。それではどこがどのように違うのでしょうか。それはなぜなのでしょうか。本編での結論である「時枝は言語を表現主体に取り戻した」ということとどのように関わってくるのでしょうか。こうした問題について、突っ込んだ検討を行うことが本稿の目的となります。  本編においては、時枝言語学の直接の批判対象であった比較言語学・歴史言語学やソシュールの言語理論に対して、時枝言語学の優位性はどこにあるのかという視点で論を展開することが中心的な課題でした。そういう意味では、「時枝は言語を表現主体に取り戻した」という本編の結論的な論理は正しいといえます。つまり、比較言語学・歴史言語学やソシュールの言語理論においては、言語を表現主体というものから全く切り離して、それ自体の物理的な音韻変化の法則を論じたり、社会的事実としての「ラング」(私の言葉でいえば、言語に関する社会的な約束事=言語規範)を問題としたりという形で言語を捉えていたところに、いやそうではないのだ、具体的な個人が具体的に語る言葉をこそ対象にして言語学を構築していく必要があるのだ、と主張したのが時枝だったということです。  しかし、言語研究の歴史をもっと広い視野で眺めてみるならば、比較言語学・歴史言語学やソシュールの言語理論以前の言語論、すなわち古代ギリシャから発展してきた言語に関する人類の認識の発展を踏まえて、17世紀に登場した『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論をも射程に入れて、時枝言語学の位置づけを行う必要があるということになります。古代ギリシャから17世紀にかけては、大きくいえば、言語は対象と関わるだけでなく、直接の基盤としての認識にも大きく関係していることが徐々に明らかになってきた過程として捉えることができるでしょう。それでは、時枝言語学は17世紀の言語論と比較して、どのような発展があったといえるのでしょうか。このことについて次回、詳しく見ていきたいと思います。

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