ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

2016/06/27(月)08:53

オバマ米大統領の「広島演説」を問う(5/5)

学一般(311)

(5)崇高な理念を実現するための具体的な筋道を主体的に模索する必要がある  本稿は、オバマ米大統領よって先月行われた“歴史的”な広島訪問、特にその中でも「広島演説」を取り上げ、唯一の被爆国に暮らす我々日本人が核兵器のない世界を実現していくためには、この演説をどのように捉えるべきか、この演説にはどのような意志が反映されているのかという問題について、日本という国家がおかれている情況を踏まえつつ、主体的に国家を建設していくためにという観点で検討していくことを目的とした小論である。  本稿ではこれまで、「広島演説」の評価すべき点、不十分な点、もっといえば欺瞞的な部分を取り上げて分析してきた。ここで、これまでの流れを大事な点に絞って振り返っておきたい。  まず、「広島演説」では未来が「選択」できるものであることが強調されていたことを見ていった。オバマ大統領は、国家の指導者が真摯に過去から学び、その学びの上で将来の国家像を「選択」することで初めて、核戦争を廃絶し、全ての子供たちが平和に暮らせる世界を創ることができるのだ、それが米国の大統領たる自らの使命なのだということを全世界に向かって発信したのであった。しかし一方で、終戦から戦後にかけての日米の「選択」に関しては、米国の利益に基づいて一方的な要求を突きつけておきながら、それがあたかも日米共同の利益であるかのように見せかけることで、国民レベルでは主体的な「選択」の余地などない日本の方向性を日本自身が「選択」したかのように論じている部分もあり、これは欺瞞に過ぎないと指摘しておいた。  次に、「広島演説」が人類の歩みを「物語」として語っていることに着目して、その中身を検討していった。オバマ大統領は、人類は人権が保障され、全ての人間が平等に扱われる理想的な社会に向って進んできたし、これからも進んでいくであろうということを、1つの壮大な「物語」として語ることで、「広島演説」を格調高いものとして演出したのであった。しかし、「物語」という言葉には二面性があるのであり、この人類の歩みを「物語」として語ることで、語り手とは関係のない、語り手がコントロールできない世界の出来事として、原爆投下が語られているという側面もあることを指摘し、これはオバマ大統領が米国世論に配慮したものであることを明らかにした。  最後に、「広島演説」では焦点をぼかした表現が意図的に多用されている事実を指摘した。人類の歩みを「物語」として語ることについては、人道的見地から原爆投下への謝罪をすべきところを、責任を逃れるために格調高い「哲学的な表現」で内容の曖昧さを見えなくしてしまっているという意味で、我々日本人が許すことのできない欺瞞であることを説いた。他にも、原爆の悲劇を戦争一般の悲劇に解消してしまっている点、つまり核兵器の廃絶を訴えているのか、戦争そのものがない社会を目指しているのか、内容が曖昧である点、人権が保障され、全ての人間が平等に扱われる社会を目指すべきだという訴えは、被爆地広島での演説としては内容がぼやけてしまって一般的すぎるという点、核兵器廃絶という理念が語られているだけで、その具体的な道筋が示されていない点を指摘した。  ここで改めて、オバマ大統領が行った「広島演説」をどのように評価すべきかについて、本論で取り上げられなかった部分も含めた「広島演説」全体を視野に入れて確認しておきたい。  オバマ大統領は「広島演説」において、一定の崇高な理念を示している。人権が保障され、全ての人間が平等に扱われるような理想的な社会への人類の歩みは、国家の指導者の「選択」によって可能であることを示し、国家間の問題については、戦争ではなく外交によって解決することも主張している。また、核保有国は、核廃絶への勇気を示す必要があることも強調している。これらのことは、超大国のリーダーが世界のあるべき姿について明確な目的像を示したとして、肯定的に評価できることである。人間は目的像を描いて、それを実現すべく行動するものである。人類全体に関わる大きな理念、将来像を提示したことは、人類の歩みにおける強力な原動力となるだろうという意味で、画期的な演説であったと評価できるだろう。被爆者を含めた多くの日本人がオバマ大統領の広島訪問を好意的に受け止めていることは、こうした「広島演説」の積極的側面を受け止めてのことであり、また特に被爆者がこの演説にある程度納得していること自体にも意味があるといえるだろう。  しかし一方で「広島演説」は、よく練り上げられた「作文」という側面があることも否定できない。オバマ大統領はこの演説で、広島を実際に訪れ、平和記念資料館を視察することで、どのような思いが湧き上がってきたのかに関して、全く触れていないのである。米国世論に配慮して、格調高く「哲学的」で「物語」のような演説であったが、具体性がなく、原爆投下の当事者としての人道的観点からの謝罪もない、曖昧で欺瞞に満ちた演説になってしまっているのである。  この「広島演説」の欺瞞を象徴するように、オバマ大統領は今月になって、インドのモディ首相と会談し、米国の会社がインドで6基の原子力発電所を建設することで合意したのである。「核拡散防止条約(NPT)未加盟の核保有国インドとの原子力協力拡大は、核不拡散政策に逆行しているとの批判もある」(中日新聞2016年6月8日夕刊)との報道もあるし、オバマ大統領が僅か半月前に「広島演説」で語った核廃絶、核不拡散への決意との矛盾も指摘しなければならない。オバマ大統領としては、核兵器と核の“平和利用”とを区別しているつもりかもしれないが、ヒロシマ、ナガサキに続いてフクシマの悲劇を体験した日本にとっては、いわゆる“平和利用”かどうかに関わらず、核そのものの脅威をなくしていくことこそが目指すべき将来像である。これは世界中で共有されている思いであることを考えれば、オバマ大統領の行動は、「広島演説」が欺瞞であったことの証明以外何物でもないのである。  以上を踏まえて、我々日本人はどのような道を進んでいくべきか、最後にこの問題について検討しておきたい。  まず、「広島演説」の肯定的側面、すなわち人類の平和に向けた崇高な理念を示したという側面に関していえば、この理念の具体化に向けた筋道を模索していく必要がある。「広島演説」で示された理念は、建築でいえば、まだ建物の外観のイメージが示されたにすぎないのであって、どのような構造でその建物を支えるのか、どういう過程で建築していくのかという具体的な中身、具体的な方法については、人類の今後の課題としてしっかりと受け止める必要があるわけである。特に我々日本人は、唯一の被爆国の一員として、自らが主体的にこの道程に関わっていく必要がある。世界平和に向けた具体的な道筋を構想し、世界に働きかけながら具体化していく必要があるのである。  さらに重要なことは、「広島演説」の否定的側面をしっかりと把握する必要がある、ということである。どういうことかというと、これまで見てきたとおり、「広島演説」は米国世論に配慮しつつ、オバマ大統領自身の「レガシー」という側面も含みつつ、日本人、特に被爆者やその遺族をある程度納得させるものでなければならなかったため、相当程度に練り上げた「作文」として発表されたものである。こうした背景を把握せず、単に立派な国の立派な大統領が立派な演説をしてくれた、世界平和に向けた理念が素晴らしかった、などと受け止めているだけでは駄目なのである。なぜなら、これまで縷々説いてきたとおり、この「広島演説」には大きな欺瞞が含まれているのであって、これを肯定的に認めてしまうことは、「奴隷根性」、「植民地根性」の現れ以外何物でもないからである。  敗戦から戦後にかけて、日本は徹底的に主体性を奪われ続けてきた。国家防衛という死活問題を米軍に依存せざるを得なくされ、経済的繁栄の裏側では米国に屈辱的な妥協を強いられ続けてきた(※1)。そうした情況を背景にして、日本人は主体的に考えることを已め、米国の主張は常に正しいものとして受け入れ続けてきたのである。この延長線上にあるのが、「広島演説」を圧倒的多数の日本国民が肯定的に受け止めているという現実である。  しかし、原爆投下の責任を否定し続ける「広島演説」に対して、それを肯定的に受け止めるなどという態度が、果たして主権を持つ国家としてのまともな態度といえるかどうか、よく考えてみる必要がある(※2)。自分でなすべきことを決定するとともに、そのなした結果に対してしっかりと責任をとるという主体性をなくしてしまった今の日本は、まずこの問題を徹底的に考え抜かねければならない。  我々は、「広島演説」に示された崇高な理念には賛同しつつも、その理念へ至る筋道を具体的に描く努力を主体的に行っていく必要があるのであって、その前提として、「広島演説」の否定的側面、欺瞞に満ちた内容をしっかりと把握する必要があるのである。そうして初めて、日本が米国の属国状態から脱し、世界で責任ある地位を占める展望も開けてくるのである。 (※1)こうした過程の詳細については別稿に譲るとして、当面、前泊博盛『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』などを参照されたい。 (※2)安倍首相が南京を訪れ、「死が津波のように押し寄せてきた」などと演説すれば、中国からどれほどの非難の声が挙がるか、想像してみるのもよいだろう。 (了)

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