カテゴリ:言語学
(2)宮下は三浦の言語観を受け継いだ
前回はまず、今村雅弘復興大臣(当時)の発言の何が問題なのかを明らかにしました。端的には、表面上の言葉づかいが問題だったのではなくて、東日本大震災をどのように捉えるのかという点に問題があったのだということでした。そして、言語から対象の見方を考えていく上で有効な言語理論として、言語過程説があり、その中でも今回は、言語過程説を英語に適用した宮下眞二を取り上げて検討していくということでした。 さて今回は、宮下の言語に関する諸々の概念規定を概観していくことで、宮下が三浦つとむの言語観を受け継いだのだということを示したいと思います。 まず断っておかなければならないことは、宮下の著作は、『英語はどう研究されてきたか』にしても『英語文法批判』にしても、初めに本質論を提示し、それに基づいて論を展開するという学問的な流れにはなっていないということです。そうではなく、現代の英文法論を批判するという問題意識が強く表れた構成になっています。具体的には、『英語はどう研究されてきたか』では、「第Ⅰ部 現代言語学の批判」、「第Ⅱ部 英語学史の再検討」となっていますし、『英語文法批判』は「序論 イェスペルセンの歴史的課題と言語観」及び「本論 英語の文法」から構成されています。ですから、宮下の言語に関する概念規定についても、明確な規定がなされているわけではないのですが、随所に表れている表現から、宮下の考え方を掬い取って検討していくことにしたいと思います。 まず宮下による言語の概念規定についてです。宮下は、「言語規範を媒介とする表現即ち言語である」(p.12、今後、特に断りがない場合は『英語文法批判』からの引用)と述べています。つまり宮下は、「言語とは、言語規範を媒介とする表現である」と捉えているのです。言語を表現の一種と捉えており、言語規範を媒介とすることを表現一般における言語の特徴だと考えていることが分かります。 では、三浦は言語をどのように規定していたのでしょうか。三浦についても、明確な概念規定をしている部分がありませんので、三浦の言語観をよく表す部分を引用しておきたいと思います。 「感性的な音声や文字を使って超感性的な一般的な認識を直接に表現しなければならぬという言語の矛盾から、特定の一般的な認識にはつねに特定の種類の音声や文字を対応させて表現するよう強制する規範が欠くべからざるものとなり、この規範による表現の媒介という特殊な過程の存在こそ、言語における矛盾がもって自らを実現するとともに解決する運動形態である」(三浦つとむ『認識と言語の理論』第3部pp.56-57) ここで三浦は、言語を矛盾として捉え、「感性的な音声や文字を使って超感性的な一般的な認識」を表現するために「特定の一般的な認識にはつねに特定の種類の音声や文字を対応させて表現するよう強制する規範」が創り出されることになったのだと述べています。言語が矛盾であるという側面を脇において要約すれば、三浦は言語が表現であり、言語規範を媒介とするという特殊性があると述べているわけで、宮下はこの三浦の言語観を受け継いでいると評価することができます。 続いて、宮下が概念をどのように把握していたのかについて見ていきたいと思います。宮下は、「概念とは対象をその普遍的側面で捉へた認識である。言語はこの概念を直接の原型とする表現である」(p.47)と述べています。端的には、概念とは認識の1つのあり方であり、対象の感性的なあり方を具体的に捉えたものではなくて、対象の感性的な特殊性を捨象した普遍的な認識であるというわけです。そして言語は、この普遍的認識である概念を基にして創り出される表現であるというのです。 それでは三浦はこの問題についてどのように説いているのでしょうか。 「どの語に表現された認識も、すべて対象の具体的な感覚的なありかたを頭の中で無視して(これを捨象という)しまって、それがどんな種類に属するかという種類としての共通性だけを分離して(これを抽象という)とりあげたものであり、この認識を概念とよんでいる。」(三浦つとむ『日本語の文法』p.11) つまり三浦は、「対象の具体的な感覚的なありかたを頭の中で無視して」、「それがどんな種類に属するかという種類としての共通性だけを分離して」「とりあげた」認識を概念と呼んでいるわけであり、言語はこの概念を表現したものであるというわけです。ここで三浦が対象の具体的なあり方を捨象し、種類としての共通性だけを抽象した認識、つまり先の引用でいえば「超感性的な一般的な認識」と呼んでいるものを、宮下は「対象を普遍的側面で捉へた認識」と別の言葉で表していますが、内容は同じものだといえるでしょう。また、言語が概念を表現したものであるという捉え方も共通しています。 では最後に、宮下が語と語彙とをどのように区別しているのかについて見てみましょう。宮下は、「語は表現であり、対象―認識―表現という過程的構造を持ってゐる」、「語彙は語を媒介する言語規範であり、ある種の対象はある種の音声又は文字で表現すべしといふ認識である」(p.45)と述べています。つまり、語は表現であり、語彙は認識であるという明確な区別があるというのです。 この点についても三浦が、語が「個々の人間によって語られ書かれた表現」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』p.38)であって、語彙は「音声の種類あるいは文字の種類」(同上書p.37)であり「社会的な約束」(同上)であると述べていることを、宮下が継承していることが分かると思います。 以上を踏まえると、宮下の言語観は三浦の言語観そのものであるといえると思います。言語の規定にしても、概念の規定にしても、語と語彙の区別についても、全て三浦の主張をそのまま受け継ぎ、自らの言語観として把持していることが分かると思います。宮下は『英語文法批判』「はしがき」で自ら述べているように、「時枝誠記・三浦つとむの言語過程説を武器として英語の謎と取組んで」いこうとしたのだといえるでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年05月23日 06時00分15秒
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