カテゴリ:言語学
(3)宮下は言語過程説を英語に適用した
本稿は、宮下眞二の言語過程説の中身を検討することで、宮下の言語学史上の意義を明らかにすることを目的として執筆する小論です。 前回は、宮下が三浦つとむの言語観を全うに受け継いだことを見ていきました。宮下の「言語とは、言語規範を媒介とする表現である」という規定、「概念とは対象をその普遍的側面で捉へた認識である。言語はこの概念を直接の原型とする表現である」という考え方、「語は表現であり、対象―認識―表現という過程的構造を持ってゐる」、「語彙は語を媒介する言語規範であり、ある種の対象はある種の音声又は文字で表現すべしといふ認識である」という区別などは全て、英語の謎を解くために宮下が三浦の言語観を自らのものとして構築した結果の概念規定であったということでした。 さて今回は、三浦にはない宮下独自の業績を中心に検討していくことで、宮下が言語過程説をどのように発展させたのかの具体的な中身を見ていきたいと思います。 まず取り上げたいのが、宮下が言語観を3つに分類していることです。 「言語のどの側面を本質とするかによって、言語理論の理論的性格が決まってくる。意味を本質とみなして言語現象を説明すれば、内容主義の言語理論になり、形式を本質とみなして言語現象を説明すれば、形式主義の言語理論になり、機能を本質とみなして言語現象を説明すれば、機能主義の言語理論になる。」(『英語はどう研究されてきたか』p.130) このように宮下は、言語のどの側面を本質とするかによって、内容主義言語理論、形式主義言語理論、機能主義言語理論という3つの言語観が存在することになるというのです。具体的にいえば、例えば、「きれいな花が咲いていた」という表現について、その表現が示す意味を中心に言語を捉える(内容主義言語理論)か、その表現の語順や語形(活用など)を中心に言語を捉える(形式主義言語理論)か、または語と語の修飾関係や主語はどの語かといった文における語の役割を中心に言語を捉える(機能主義言語理論)かによって、言語観を分類したのです。さらに宮下は、内容主義言語理論を2つに区別して、言語が対象―認識―表現という過程的構造を持ち、この客観的な関係自体を言語の意味と捉える科学的内容主義(=言語過程説)と、客観的な関係自体ではなくて、関係を構成する実体である対象や話し手の認識、あるいは聞き手の認識を漠然と言語の「意味」だと経験的・直観的に把握する経験的内容主義とを挙げています。また、形式主義的言語理論については、「語の形態や文における語の位置などの言語の形式的なあり方を言語の本質とみなして言語現象を説明する理論」(同上書p.131)だとしています。そして、機能主義的言語理論に関しては、「語の内容(語が何を表すか)ではなくて、他の語に対して統語的関係(たとえば形容詞は名詞を「修飾」するとか、名詞は「主語」や「目的語」になるとか)を取るという「機能」を語の本質とみなし、更に句や文をも同様の機能的観点から説明する理論」(同上)だとされているのです。 以上のように宮下は、言語学史を検討する中で、その中に表れる言語観を大きく3つに分類し、言語の捉え方を整理した上で、科学的内容主義である言語過程説が言語観として正しいと主張したのでした。 続いて、宮下の名詞論の中から特徴的な議論を紹介したいと思います。 まず、名詞と形容詞の区別についてです。ヨーロッパ諸語の大きな特徴として、名詞と形容詞とが同様の屈折をするということがあります(英語は屈折が消失してしまっている部分が多いですが、例えばラテン語では、「友」を表す名詞amīcusも「良い」を表す形容詞bonusも共に主格・呼格・属格・与格・対格・奪格の順にus・e・i(ī)・o(ō)・um・o(ō)と語尾変化(屈折)します)。ですから、上記の形式主義言語理論では名詞と形容詞の区別がつかないわけです。そこでイェスペルセン(デンマークの言語学者1860-1943)は、名詞と形容詞の区別の根拠に関して、両者の特殊性の程度の差(名詞は特殊的な意義を持ち、形容詞は一層一般的な意義をもつという差)と、名詞が「諸性質の複合」を表示するのに対して、形容詞が「一つの性質を抽出する」点とに求めたのでした。これに対して宮下は、特殊性の程度の差は語ではなく語彙の問題であり、また「諸性質の複合」を表示するか「一つの性質を抽出する」かは語によって様々であるから、両者の区別の根拠にはならないと批判しました。そして、「形容詞と名詞とは、それぞれ静的属性―静的属性概念―形容詞、実体―実体概念―名詞といふ過程的構造のあり方が異るのである。」(p.77)と述べ、言語が担う過程的構造の違いに着目したのです。さらに、red(赤み)やsweetness(甘み、甘さ)等の静的属性を表す名詞に関して、「これらは静的属性―実体概念―名詞といふ過程的構造を持ってゐる」(p.78)と説明しています。以上から宮下は、端的にいえば、実体概念を表現したものが名詞であり、静的属性概念を表現したものが形容詞だとして、認識のあり方で語の種類すなわち品詞を分類しているのです。同じ静的属性を対象としても、それを静的属性概念として把握するか、実体概念として把握するかによって、形容詞として表現したり、名詞として表現したりするのだということです。 ほかにも宮下は、名詞に関連して、「ヨーロッパ諸語の複数表現は、同種類の実体を個別に認識した上で、それらを総合して、その総合的認識を原型とした表現である」(p.51)と述べたり、「ラテン語等の形容詞の文法的性が、接続する名詞の文法的性と一致するといふ文法現象は、その形容詞と名詞とが対象としている静的属性と実体とが現実に於ては不可分に結合してゐる事の、文法上の反映である」(p.61)と述べたりしています。 以上を踏まえると、宮下の名詞に関する考え方はどれも、言語は対象―認識―表現という過程的構造を持ち、言語規範を媒介とすることで、対象を共通の側面すなわち種類の側面で捉えて表現するものであるという言語観に基づく一貫した説明になっていることが分かると思います。 さて、続いて宮下の冠詞論を検討してきたいと思います。 宮下は初めに、「名詞が冠詞を取つたり取らなかつたりする現象の土台には、英語に特有の単位観がある」(p.222)として、単位の問題を検討していきます。まず、「単位の認識は対象たる実体が他の同種の実体と共通する個体としての形式を持つてゐることに基く」(同上)と述べ、「或る種類の実体に特有の個体としての形式を単位性と名付けよう」(同上)と定義します。そして「単位とは単位性の認識に外ならない」(同上)と述べるのです。つまり「単位」は認識であり、「単位性」は対象たる実体の性質であるということになります。 さらに宮下は、単位性について「同種の個体にほぼ共通の形態のことである」(p.224)として、家具を表すfurnitureを挙げて、これは机や椅子や寝台などの動かせる道具を表すが、それらに共通の形式を見つけることが難しいから、所謂物質名詞として、単位性を持たないと説明します。そして単位性を持たないことは、「複雑な事態を抽象的かつ実体的に把握した場合や、属性を実体的に認識した場合」(同上)も同様で、例として、peaceやkindnessやarrivalやboyhoodは単位性を持たないと説明するのです。 こうした説明によって宮下は、「この単位を表すのが冠詞である」、「定冠詞も不定冠詞も単位性の認識を内容の一部としてゐるのである。」(同上)と結論付けるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年05月24日 06時00分10秒
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