255497 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

灰色猫のはいねの生活

灰色猫のはいねの生活

その8

「とっても良い犬だね。」
わかる人にはわかるらしく、家に来る犬好きな人はみつを誉めてくれます。
それが由記ちゃんにとって、だんだんと誇らしく、自分のことのようにうれしくなっていました。
あれから3年、由記ちゃんは小学6年生になりました。
みつは相変わらずです。
大介くんとの散歩は、時々ですが続いています。
最初はおっかなびっくりだった由記ちゃんも、少しづつ慣れてきました。
さわるのさえ勇気がいったのが嘘のように、『目隠し』なんて遊んでいます。
由記ちゃんの小さな手で両目を隠されたみつは、少し後ずさっていやいやをするように顔をふりました。
そんな頃に、あの事件は起こったのです。
ゴールデンウィークの1番最後の日、薄曇りの午後でした。日ごとに増えていく緑。
植えられたばかりのビートの葉っぱが大空を目指しています。
いつものように散歩していた時でした。
引きづなの金具が上手くはまっていなかったらしく、五百メートルほど行ったところで、いきなりみつが離れたのです。
普通なら引き返す舗装道路を一目散に駆けて行きます。
「みつ。」
呼べば止まって振り返るのに、近付くとまた走り出す、由記ちゃんを小馬鹿にしたように一定距離を保ちながら近所の家の庭先へ入って行きました。
そこで飼っている2匹の犬に吠えながら向かって行きます。
激しい吠え合いにも、家の人は留守なのか、誰も出て来ません。
2匹を相手にしても、みつは負けていません。
相手は犬小屋に入ったまま、ただ吠えさかるだけで、出て来ようともしないのです。
勝ったとばかりにみつが大人しくなった時、今だと由記ちゃんは後ろから首輪をつかみました。
引きづなをはめるために。
「!」
振り返りざまにみつは、由記ちゃんの右足を咬んだのです。
興奮しているのか、離そうとしません。
もう一度、首輪をつかむと今度は右手に咬みついて来ました。
「みつっ!」
由記ちゃんが叫びます。
痛みより何より、由記ちゃんの犬嫌いがよみがえってきました。
恐ろしい。
例えようのない恐怖に、由記ちゃんの体がすくみます。
意を決して、思い切り右手をふり払うと正気に返ったのか、みつは大人しくなりました。
引きづなをはめても、今度は逆らおうとはしません。
何も無かったかのように、家へと戻って行きます。
血のにじんだ右手をかばって左手でつなを持ち、由記ちゃんは淡々と家への道を歩きました。
ショックのためか、傷の痛みはさほど感じられません。
ぼう然としたまま、家へ戻ると、お姉ちゃんが傷口見て慌てました。
「みつに咬まれるなんて…。」
言葉がありません。
由記ちゃんの右腕をつかんで水道を全開にして傷口を洗い流します。
泣きながら、それでも傷の痛みよりも何よりも胸が痛むのです。
『飼い犬に咬まれる』なんて、よっぽどまぬけな奴だとみんなで笑ったことがあります。
まさか自分が咬まれることになるなんて、由記ちゃんは思ってもみませんでした。
情けない。
それ以上に、犬に対する恐怖心がふくれ上がっていきます。
犬が恐い。
みつが恐い。
お姉ちゃんがビニールハウスにいるお父さんとお母さんを呼んで来てくれました。
咬まれた右手を見て、お母さんがお父さんに言います。
「犬に咬まれたら注射しなきゃ。姉ちゃんが咬まれた時もそうだったしょ。」
新聞で救急病院を探し、お父さんの車で連れて行ってもらいました。
病院はお休みにもかかわらず、結構人がいます。
受付をしてくれたお姉ちゃんと、待合室のイスに座りました。
由記ちゃんのすぐ後に、目の前の3人ほどかけれる椅子の右左に分かれて中年のエプロンした女の人と、それよりは少し若い男の人が来て座りました。非常識にも男の人は病院内で携帯電話をかけ出します。
「大丈夫?」
電話を終えた男の人が女の人に声をかけるまで、由記ちゃんはこの2人が連れだとは思ってもみませんでした。
ぼうっとしながらも、不思議な2人だと由記ちゃんは思いました。
間もなく名前が呼ばれ、診察の前に
「どうしましたか?」
看護師さんに聞かれました。
「犬に咬まれたんです。」
お姉ちゃんが答えてくれます。
右手と、右足の付け根の部分を見せました。
「ここにかけてお待ち下さい。…どうしましたか?」
やはり由記ちゃんのすぐ後にあの女の人がいました。
「犬に咬まれたんです。」
看護師さんが由記ちゃんに向き直り
「同じ犬ですか?」
と聞きました。
「いいえ。」
答えて、その女の人をよく見ると下半身は血だらけでした。
紺のズボンをはいていたので目立たなかったけれど、咬まれたあとはくっきりとわかります。
由記ちゃんは思わず目をそらしました。
「勤め先の犬なんですけど、いつも遊んでて馴れてたんですけど、いきなり咬みついてきたんです。」
衝立の内側でズボンを切り、傷口を診て、すぐに
「手術しますから。」
と、車椅子に乗せられて別な場所へ連れて行かれました。
寒気がします。
がくがくと膝が震えるのをお姉ちゃんが抱きしめてくれました。
あれほどのケガを、飼い主は何をしていたのでしょう。
病院へ連れて来ればそれでいいの?
のんきに待合室で携帯かけてる場合じゃないでしょう。
『大丈夫?』なんて聞いてすむことじゃないでしょう?
由記ちゃんは自分の痛みも忘れて思いました。
犬は、玩具ではありません。
感情を持つ生き物です。
言葉が話せない以上、人間に咬みつく事も表現の一つなのでしょう。
それを実行するかしないかは、人間次第なのではないでしょうか。
そして、もし自分の犬が咬みついた時にどうするか、それが飼い主の力量ではないのでしょうか。
今日のみつだってケンカしている時に後ろから首輪をつかんだりしたから由記ちゃんは咬まれたのです。
そもそもきっちりと引きづなの金具をはめていれば、こんなことにはならなかったのです。
悪いのはみつじゃない、私だ。
犬が悪いんじゃない、人間が悪かったんだ。
由記ちゃんは『ごめんなさい』と心の中でみつに謝りました。
「犬に、咬まれたんですって。」
名前を呼ばれ、診察室へ入り、傷口を診てもらいました。
「足の方は浅い傷だね。少し内出血してはれるでしょうから、湿布を出しておきます。右手は、縫った方がきれいに治りますから、縫いましょう。先に、化膿止めの注射をして傷口を消毒しますから。」
縫うなんてとんでもない。
由記ちゃんは思いました。
注射1本でさえ苦手なのに。
冷や汗が出ます。
足の傷はきっちりと歯形になっているとはいえ、素人目にもわかる浅い傷です。
右手だって、ただ一ヶ所、親指の腹の部分が鍵型にえぐれただけなのです。
「絶対に動かしたり水につけたりしないで下さい。薬は化膿止めですから、これも食後に1日3回、必ず飲んでくださいね。糸は1週間後に抜きますが、それまで1日置きに通院して下さい。傷口を診ますから。」
半分泣きながら、それでもぎゅっと目をつむって由記ちゃんは我慢しました。
麻酔がまだきいているはずなのに、3針縫った右手がずきずきと痛みます。
右手は大げさなほどぐるぐると包帯が巻かれ、指先がかすかに動かせる程度でした。
傷口を消毒するため1日置きの通院は、忙しい農作業の合間をぬってお父さんが送り向かえしてくれます。
食事やお風呂はお姉ちゃんが手伝ってくれました。
それは、糸を抜く1週間後まで続きました。
「どうしたの?その右手。」
朝一番に大介くんが包帯の訳を聞いてきます。
決まり悪そうに、
「みつに咬まれちゃった。」
と言うと大介くんは
「僕も咬まれたよ。」
と驚きもせずに言ったのです。
怪我で自転車に乗れない由記ちゃんと一緒に学校まで自転車を降りて歩いてくれます。
自転車のカゴに、由記ちゃんのカバンも入れてくれました。
「小さい頃だけどね、まだ傷跡あるよ。」
右足のふくらはぎの下の方、小さな歯形がありました。
「お母さんなんてもっとひどいんだ。昔飼ってた犬にだけど、野良犬とケンカしてる時に割り込んで、十針くらい縫ったんだって。」
大介くんは笑いながら言います。
「この前、おばさんが猫に口を咬まれて穴が開いたって言ってたし、乗馬をするおじさんは馬に肩を咬まれたんだって。こう、肩から胸のところ、本当に馬の歯形がそのままついてたんだよ。あれは、本当にびっくりしたなあ。」
学校までの道のりは、あっと言う間でした。
「動物飼ったら、一度くらいは咬まれるのが普通なんじゃない。」
そう言って、大介くんは自転車を置きに行きました。
だから、由記ちゃんは何を聞かれても、何を言われても笑っていられたのです。
飼い犬に咬まれるなんてと馬鹿にしたように言った子もいたけれど、そんな子は犬を飼ったことがないのでしょう。
本気になって動物とふれあったことが無いのかもしれません。
咬まれても、由記ちゃんはみつをつかまえることに必死でした。
家に戻ってからも、ペットショップに返そうなどとは思わなかったし、もしそうなれば由記ちゃんは必死に止めたでしょう。
犬はやはり恐くて嫌いだけど、みつはうちの犬だとその時、始めて由記ちゃんは思いました。
ペットショップからの預かり犬だと、心のどこかにあった気持ちはきれいさっぱり無くなりました。
犬は恐い。
でも、みつは可愛い。


© Rakuten Group, Inc.