2007/03/10(土)21:08
39. トレーナー発表会
39. トレーナー発表会
10月15日木曜日、中野ファミリーではトレーナー発表会と名打たれたものが行われる事となり、夜、三栄荘に10人が集まった。
私は川元と一緒に、中野へ戻って来た。
「酒をやめる?」
川元が云った。
「ああ。ゆうべも呑んで吐いたんだが、今朝な…、眼が覚めた時不意に『酒が呑みたい…。』って思ったんだ。
急度、アル中になり掛けてるのさ。」
「だから酒をやめるのか…。
本当にもう呑まない積もりか?」
「ウィスキーのガブ呑みは、もう控える積もりだ…。」
三栄荘の入口を入って、階段を上って行くと、他の8人は既に揃っていた。
「よぉ、鉄兵!
久しぶり。相変わらず呑んでっか・」
ドロが云った。
「まあな。
でも今は禁酒中だ。」
「あら、初耳ね。」
香織が云った。
「駅から帰って来る途中、決めたんだ。」
「じゃあ、ジュースでも買って来ましょうか?」
ブランデーをグラスに注ぎながら、世樹子が云った。
「否、其れには及ばない…。」
私は注いで貰ったブランデー・グラスを手にした。
「私、禁酒って言うのは、酒を呑まない事だと思ってたわ…。」
香織が云った。
「呑まないさ。
ブランデー・グラスの底は、どうして丸くなってるか知ってるかい?
此処に掌を当てて、グラスを温める為さ。
そして蒸発した酒を、鼻で嗅ぐんだ。
そもそもブランデーと言うものは、呑むものじゃなくて香りを味わうものなんだぜ。」
云い終わると、私はグラスを口に付け、ゴクッとブランデーを呑んだ。
「…でも我々下層市民は、矢張り呑んだ方が美味いと思ってしまうものだ…。」
呆れた顔で視ている香織達に、私はそう云った。
全員、出来上がったトレーナーを着て、乾杯した。
「こうして、みんなが同じ服を着てるって言うのも、何か異様ね…。」
香織が云った。
「あら、素敵じゃない?」
世樹子が云った。
「此のトレーナーを着るのは、今夜が最初で最後になるだろうな…。」
川元が云った。
「何だ、お前。気に入らないのか?」
私は云った。
「否、こう言ったオリジナル・トレーナーなんてのは趣味じゃないんだ。」
「私は、ちゃんと着るわよ。
…寝巻として。」
ヒロ子が云った。
「何だ、みんな仕方無く買ったって感じだな。」
柳沢は云った。
「当たりめぇだろ。」
ドロは早くも目許を赤くして、云った。
「出来れば、外出の時、着て欲しいな。」
「お前、こんなもの買わせて置いて、おまけに表へ着て出ろなんて、其れは暴力と言うものだぞ。」
「みんな冷たいよな。
少しは喜んで貰えると思ったのに…。」
私は云った。
「あら、嬉しいわよ。
新しい服が手に入ったんだもの。
だけど…。」
ヒロ子は微笑みながら、云った。
「解った…。
明日からはもう、着て呉れなんて云わないから、せめて今夜だけ、脱がないでいる事を約束して欲しい…。」
「ええ、好いわよ。」
「よし。
柳沢、今夜は外へ呑みに行くか?」
「おお、其れが好いな。」
「冗談でしょ?」
「勘弁して呉れよ。」
「ウィスキーも買って有るのよ。」
「此の部屋には幾ら酒が有ったって、在庫になるって事は無いさ。
ヒロシ、中野へ呑みに出るぞ。」
フー子とノブの二人を相手に、真剣にオセロをやっていたヒロシに向かって、私は云った。
全員で外へ繰り出した。
同じトレーナーを着た集団が、中野通りの舗道をゾロゾロと歩いた。
路行く人々の視線を浴びながら、ブロードウェイを抜け、サンモール商店街の小路を折れて、「サウスポー」へ入った。
「私、もう駄目。
血圧上がりそう…。」
香織が云った。
「矢っ張り、少し恥かしいわね…。」
世樹子が云った。
店の中でも、我々は注目の的となった。
「こんな事になると解ってれば、トレーナーを作るって聴いた時、大反対しとくべきだったわ…。」
「香織ちゃんが反対しても、トレーナーは急度出来てたわよ。」
「そうね…。
全く、あなた達は次から次へと、考えてやって呉れるわね。」
「何だかんだ云って、君も一緒にやってるじゃない?」
「私はいつも、あなた達の云い出した事に愕いて茫然自失の中に、やってしまってるのよ。」
「俺達はさ、唯想い出を造ろうとしてるだけさ。」
柳沢が云った。
「確かに此の恥かしさは、忘れられそうに無いわ…。」
「想い出を残す為に、何処かへ旅行するなんて事は馬鹿げてるよ。
何年か先に今を想い出すとして、俺達が居たのは此の街の此の場所なんだ。
だけど、俺達が中野で今日迄過ごした半年余りの間の出来事だって、長い年月の果てには、毎日の出来事なんて殆ど忘れられてしまうんだ。
特別印象的な、ほんの一握りの時間だけが想い出として残って、其れ以外の、本当に其の年を飾った沢山の日々が忘れられて行くなんて、哀しいじゃない。
日常って言う、昨日と今日の区別も付かない一色に塗り潰されて、普段の小さな出来事なんて、2度と想い出される事は無いんだ。
でも…、俺達は、毎日を想い出にしたいのさ。
今日を、今を、此の瞬間を、想い出にする事をいつも考えてるんだ。」
「そんなに想い出を造ったら、溢れてしまうわよ…。」
「溢れて猶、心淋しいのが、想い出だよ。」
私は云った。
「でも、まあ、御蔭で今日迄中野にはもう想い出が一杯だわ…。」
「川元君は、オリジナル・トレーナーなんて趣味じゃないって云ってたけど…、無理して着てる事無いのよ。
此の人達に遠慮せず、厭だったら脱いじゃって構わないわ。」
「否、もう恥かしさを通り越して、快感になって来た。
結構、好いものかも知れない。
唯…、高校時代迄ずっと制服を着せられてて、大学へ入って、サークルや何かで又全員同じ服を着ようとする神経は、俺には理解出来ないんだ…。」
「学生服、嫌いだったの?」
「あんな物、好きな奴は居ないだろ…?」
「まあね。
着てる頃は厭で仕方無かったけど…。
特にうちの制服は、デザインが気に入らなかったから。」
「でも、もう着なくても好い今になってみると、妙に制服が懐かしいのよね。」
「学生服なんて物は、軍隊の思想と一緒だぜ。
要するに、個を抹殺して全体に同化させようって言う考えさ。
学生服は軍服の一種なんだ。
個々が自由な思想へ走るのを制して、時の思想、同一の思想に向かわせる為、統一されたものを着せて、無意識の中に全体主義を植え付けようって考えられたものさ。」
「でも、統一美って言うのも、有るんじゃない?」
「其れも、確かに有るけど…、黒い制服を着た学生達が路を歩いていて、其れが美しく見えたのは、もう一昔も二昔も前の時代迄さ。
辺りに田や畑が沢山在って、河に色んな生き物が居た、そんな背景の下でなんだ。
都会にも未だ高いビルの無かった、白黒のニュース映画で視る、あんな時代に於いてなのさ。
考えてみろよ、現代の此の街の中を、あの黒い制服を着た集団がゾロゾロ歩いてる姿が、美しく見えるかい?
色彩の氾濫した今の街に、あれは不快感こそ起こさせても、決して快い感じは湧かせない。
電車に乗っていて、駅に停まりドアが開いて、ドッと学生服の集団が乗り込んで来た時…、あれは本当に鬱陶しいものだ。
俺には彼等が、街のゴキブリに見える…。」
云い終わると川元は、ソルティ・ドッグを呑み干した。
「浜田省吾…?
まあ、名前は知ってるけど、余り聴いた事無いな。」
「私、はっきり云って嫌いよ。」
「どうして?
私、『片思い』とかとっても好きだけどな…。」
世樹子は云った。
「其れで、コンサートはいつ有るの?」
「えっと…、来年なんだけど、1月12日。」
「私はパス。
オフコースのコンサートに、3つ以上行きたいと思ってるのよ。」
「俺もやめとく。
殆ど唄は知らないんだ。」
世樹子は哀しそうな表情になった。
「鉄兵君は…?」
「俺は好きだよ。
『丘の上の愛』なんて好いよな。」
「ねえ、好いわよねぇ…!
コンサートは観たくない…?」
「観たいよ。」
「へぇ、あなた浜田省吾なんて好きだったの?」
「うん、『傷心』も好きだし、其れに彼と俺は同郷なんだぜ。」
「世樹子、好かったじゃない。
連れが出来て。」
「私、一人でも行く積もりだったわよ。
出来たら、アリーナに坐りたいな…。」
「発売開始はいつだい?」
「18日、日曜日よ。」
「じゃ、土曜の夜はサン・プラに泊まり込みだ。」
「サウスポー」を出る時、レジに立った若い店員が「何のサークルですか?」と我々に尋ねた。
直ぐに答える者は無かった。
「ナ・カ・ノ・ファ・ミ・リー…?」
店員がトレーナーの文字を読みながら云った。
「そうです。
『中野ファミリー』です。
知らないですか?」
「ええ…。」
「あなた本当に、中野ファミリーを知らないんですか?
驚いたな…。」
「嘘?
中野ファミリーを知らないですって…?」
「信じられねぇな!
中野の人間じゃないでしょ?」
「いえ、中野に住んでますけど…。」
「中野に住んでて、中野ファミリーを知らない…?
俺達をからかってんじゃねえの?」
「いえ…、済みません…。」
「WE ARE,NAKANO FAMILY!」
確かに、我々は酔っていた。
ヒロ子がもう帰らなくてはならないと云い、我々は中野駅へ行った。
「ヒロ子ちゃん、残念だな…。」
「夜は此れから、なんでしょ?
知ってるわ。
でも、今夜は帰らないと都合が悪いのよ。
御免なさい…。」
「ヒロ子は自宅だから、色々大変よね。」
「電車に乗ったら、トレーナー脱いじゃう積もりかい…?」
「此の儘、着て帰るわよ。
約束だもの。
朝迄、ずっと着てるわ…。」
改札を通り抜けて行くヒロ子を見送った後、我々は三栄荘へ戻る為、北へ足を向けた。
未だ明りの消えない街並の間をワイン・カラーに染めて行く我々を、サン・プラが黙って見下ろしていた。
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〈三九、トレーナー発表会〉