クリスマススカイ

 パーティの片隅で、チョコレートをつまむ。ベルギー産の生チョコですよう、とじょう城くんの声が言っている。月見ちゃんがカウンターの向こうから、イチゴのシャーベットも出してくれた。雪見ちゃんは私の隣のスツールに座り、ドイツのデザートワインの栓を抜こうとしているところ。
「とっても甘くておいしいんだな、これが」
甘いチョコレート、酸っぱいシャーベット、甘いワイン。賑やかな音楽に、歌い踊る陽気な人たち。
口に入るものはどれもおいしく、かなり派手に盛り上がっているクリスマスである。
「どーも顔が不景気なのよね、かなり外してるわよ、葉月」
「TPOに合わせて顔を選んでくれないと困るわぁ。もてなしてるのよ、私たち」
すみません。場を崩しまして。
「そりゃね、クリスマスは恋人たちのための祝祭ですからね」
「彼氏に逃亡されちゃ、そりゃ不景気にもなるでしょうけどね」
「先輩もわかんない人ですよね。方向として全然逆じゃないですか」
「逆って城くん、地球って丸いでしょ? どっち回っても帰って来れるじゃない」
「いや、月見さん、そうでなく」
「空港まで行ったらふつう、日本を目指すわよねー。クリスマスですから、この土地は」
「世界中クリスマスだよ、雪見ちゃん」
 三人そろってつらつらと、どうもありがとう、ご丁寧に。動きでおもてなしを受けていることはわかるけれど、突き刺さる言葉ばかりが聞こえてくるのは、わざとやっているでしょう、あなたたち。
私の置かれた状況は、ここに説明された通り。まさしく現在クリスマスイブの午後八時、まさしく彼氏彼女はディナーを楽しむ時間であるけれど、まさしく私は月見ちゃんたち主催のいかれパーティで最高にもてなされ中だ、どうだッ。
「しかしスイスだっけ。なんでそんなとこまで行けて、日本に戻って来れないわけよ?」
 それは私の人生最大の疑問なのよ、雪見ちゃん。
「唐突な動きは、啓示でも示されたかね」
 そうかもね。航空券予約の電話がつながってから、突然思いついたとか言ってましたから。
「チョコレートでも売ってんじゃないですか?」
 チョコレート? なにそれ。
「風が吹くまで戻ってこないってこと?」
 あぁ。映画か。
「その風で戻ってくるのかどうでしょか。さて」
 メアリー・ポピンズみたいだな。子供たちはどうやって、メアリーを引き止めたんだったか思い出せたら、役に立つかもしれない。けれど、引き止めたことなんてあったのかどうか、まず思い出せない。もともと好きではなかった物語なのだ。中学生の時に読書感想文のために読まされたけど、厳格な家庭教師が怖くてたまらなくて、笑うところでも笑えなかった。避け続けた映画を大学生になってからうっかり観てしまうまで、印象は最悪だったんだ、あの人は私の中で。
 東風が吹いたら私は去らねばなりません。
 あれも神の啓示なんだろうか。自分を一番必要としている人間のところへと飛んでゆく運命。
すると、隆一朗を私よりも必要としている人間が、ベルンとやらにいるのだと言うこと? 神様。そういうこと?
私は後回しだと、そう言っているのは神様か?
「あー、ムカつく。ぶっとばすーッ」
ぐいっとワインを空けてみれば、大変においしゅうございます。ドイツ。と言ったら、スイスの近く。隣だな、さては。憎たらしい。
「お。やっちゃえやっちゃえー。加勢するわよん、葉月ー」
「四十七人くらい簡単に集まるわね」
「でも、そんなこと言って葉月さんは絶対にやらないもんなー」
「前ぶっ殺すって言ったときも期待したけどね」
「結局ねぇ」
 こんなにかわいそうな私を、まだネタにして戯れるのか、君たちは。私はつ注がれて増えていたワインをまた空けた。そして叫んでしまう。
「すごいやなやつらー」
 月見ちゃんたちの笑い声の中、今度は違うボトルから注いでくれる城くんは、潜めた声で、
「呪っちゃうのはどうですか?」
「呪い?」
「前に読んだ本に書いてあったんですけどね」
 城くんの目が輝き出した。この手の話が大好きなのだ。こんな本ばかりを読んでいるのだ、この男は。
「言霊とか言うじゃないですか。実際にそういうモノって世界中に伝えられているんですよ。根拠がないとは思い難いでしょ、そうなると」
「そうね。ほんとにあるからみんなで語るのよね」
 笑いすぎの涙を指で拭いながらの、雪見ちゃんの同調に力を得たらしい。城くんは張り切って身を乗り出した。
「生霊も似たものですね。強い想いが体から抜け出て、実体を持つわけです。それは抜け出た時点で一つの個ですから、元が同じ人間であろうと、常ではコントロールは利かない。呪術師と言うのは、コントロール術を身につけた人間なんですね。向かえと命じれば向かって行く、人のようなものです」
「人のようなってことは、人みたいに働くってこと?」
「たいていは以上の力を持ちますけどね。以上と申しましょうか、人間の希望から生まれるものなので、希望する力を持つわけです。できたらいいのにと言いますか」
「脳や心に作用するわけだ」
「怖いわねぇぇ」
 賛同を強要するみたいに、月見ちゃんが私を見て言った。ワインをグラスが受け止めるとぷとぷという音が、頭に大きく響いているのは、どうしてだろう。
うるさいくらいに。
「相手がどれほど遠くにいようと、狙ったのなら外れはしません。呪術師の呪いは、山を越えて丘を越えて、海を渡り空を翔け」
 とんとん、ととん、とコルクの栓が、カウンターを跳ねていく。操っていた城くんの手は、それを私の眼前でぴたりと、
「確実に狙った相手の頭上へと」
止めた。
――カクジツ。
「ほら、松宮先輩、近くにいないですから。殺しに行くのも航空料金かかるんで、手軽に呪いと言う手段で」
「そういう意味では、ものすごく手軽だけれど、……それって」
そういう問題でそういう手段を選ぶことが、現実と非現実を結びつける無理というのか、そんなものを感じないだろうか。
「術を身につけた人間って言ったよね。葉月、できないじゃない、そんなこと」
「どっかで教えてくれるものなんじゃない?」
「いろんなハウトゥ本が出てますよね」
「弟子入りじゃない? 山奥で滝にうたれて修行とかするのよ」
「ね、どうせなら近くから狙ったら? 効果強そうじゃない。スイスって、山高いでしょ、霊峰でしょ。日本で修行するより強くなるかもよ」
「距離は無関係なんですってば」
 本なんてどこにもなかったように思うけど、末に転がっているように感じるのだった。
それだけの修行をするのなら、マスターしたいものは別にある。人間ではないような力を手に入れるなら、どうせなら地球一周ひとっとびの、スーパーマンの力を私は欲しい。世界を跳び越える力を。
 赤い液体が、グラスの外にはみ出して見える。詰めて考えることを頭が嫌がっている。
「それでスイスのどこに行ったって?」
「ベルン」
「くまの公園があるところですよ。州の旗もくまなんです。ベルンてベアーなんですよ、つまり。ユングフラウとか近いところですね。スイスの首都でもあり、町並みが大変に美しいところです」
「行ったことあるの、城くん」
「NHKで見ました」
「そりゃ行くより詳しくなるけどね」
 城くんと同じ番組なのかはわからないけれど、私もNHKでベルンを見た。路面電車が走っていて、石造りの建物があって、噴水と薔薇とくま。
『現在、ベルンは雪。クリスマスは礼拝に参ります。』
それは今朝、受信されたメールの一文。
テレビで見た季節が夏だったので、私の枯渇寸前の想像力では、隆一朗がいる風景がイメージできなくてもどかしい。音楽はなぜかジェンカだし、ワインは飲んだら増えてくし、考えるにふさわしくないこんな場所では、それはますます不可能だ。
だめだ。頭が悪い。
「ちょっと。外の空気吸ってくる」
「一人で大丈夫ですか」
「ウン」
 私のことではなく、付き添う人の幸せのために、私を一人にしておいて。
城くんは眉を寄せたけど、月見ちゃんは手を振った。踊るみなさんの間を抜けて店を出れば、中の暖かさをここで知る。
外気の冷たさに、目から頭にかけて覆うようだったアルコール分が一瞬にして消えていったのを感じていたけど、足は予定していたとおり階段に向かっていった。屋上。目指す外の空気は、上空だった。
 踏み外さずに上れているので、酔いは醒めているのだと思う。どれほど飲んでも酔えないほどに、思い詰めているせいかもしれない。コンクリートの階段から冷気が昇っている感じ。そして金属製の冷え切ったノブを回せば、
「おわ、雪だ」
 吐いた息がドライアイスの煙みたいに、私の顔に寄せてきた。顔のあちこちがぴりぴりするほどの、寒さだ。今ではクロークルームでたくさんのコートの下に埋まっているマイコートを思い、せめてマフラーだけでも持ってきたならと、毛糸のほんわりした温かさを思い、――……。
「ばかだ。私は」
 グリーンのマフラーは、……長く使いすぎているのだ。今、マッハでいくつもの場面が、襲いかかるみたいに浮かんで消えた。
なんでもない冬、どうでもいいような一場面。そんな過去の半端な、思い出というには特別じゃなさ過ぎる時間を、どうしてこんなに覚えているの。そしてどうして、思い出すんだちくしょー。
 泣いたら冷たさ倍増だろうなぁ。あふれた瞬間、涙は冷たい水になる。歌に歌われた教訓に従い、私は顔を上へと向けた。
冷たい。雪が来る。
地上の灯りを忘れるくらい、空の奥は黒く見える。
飛行機の光が夜空を移動していく。ゆっくりに見えるけれど、ものすごいスピードで、あれは空を翔けるもの。
空を翔け……。さっき、それを聞いたはず。
翔けていく、言葉? それで届く? 何で? 風とかに乗るの? 城くんはなんて言ったのか。
――『呪術師の呪いは山を越えて丘を越えて』
呪いだった……、あれは。
 額をつけてみれば、金網はとても冷たい。透きとおった鋭いものが、頭の中に突き刺さるような感覚だった。
言葉が超えてゆくのなら。
「呪ってない。呪いじゃない。呪いじゃないですからね」
すう、と自分が息を吸い込む音が聞こえた。風が耳元でひゅるりと回っている。
「メリークリスマス」

 しばらく真っ白のまま、向かいのビルのデコレーションなどを見ていた。きっととても短い時間が過ぎたあと、私は我に返り、
はっずかしー、バカじゃないのー、バカだよーっ。バカこの上なしだよう。
 とてもたまらない気持ちに襲われ、私は座り込んでいた。どうかしてるどうかしてる。酔い過ぎ? 逆に醒め過ぎ? どちらにしても、゛゛゛通り越゛゛゛してる。
 しっかりしろ。そう言っている側からすぐに、私本人が否定していた。できるわけがない。そして、しっかりし過ぎてる。いつもよりもしっかりと、自分の気持ちから真っ直ぐ、じゃない。
届くような気持ちになる。はらはらと降りてきて、私にぶつかり私に吸い込まれる雪。
空がまっすぐ広がっている気がする。
いつもと違う。
世界中で同じことを考えていると思えるから?
 メリークリスマス。
そうか。誰かが隆一朗にその言葉を言ってくれたら、そこで私の放ったメリークリスマスも同化できるかもしれない。ぴとっとこう、くっついて一緒にね、届いて。
私の気持ちがふわふわって空気の中に溶けて、それが風に連れて行かれて……、そうだ、この雪に載って、というのはなかなかにロマンティックでクリスマスらしい発想だわ。
隆一朗に降る雪のたった一つに、私からの祝福が込められている。
祝福? そんな話だったっけ。どこかから話が曲がってしまったような感じもする。
でもクリスマスらしくて美しいから、そういうことで纏める、ということで。
「はづき、はづきー」
 ゆっくり頭を振り向かせれば、雪見ちゃんが仁王立ちだった。小雪が舞う風景の中に、雪見ちゃんが居る。
「中に入りなさいよ、捕まるわよ」
「なんでよ」
「酔っぱらい女」
 こんなビルの屋上に警察なんて来ないじゃん。と思いつつ、自分を見てみれば、コンクリートに膝を着き、まるで今にも行き倒れそうだ。
私は雪見ちゃんに見せるためにも、すっくと立派に立ち上がり、
「そんなに酔ってないもん。寒いから醒めました」
「違うわよ、自分に酔ってるでしょう。それ全部ね、あんたの妄想だよーん」
「あ、ひどい。いい気分だったのに。雪見ちゃんのこと、きれいだって思ってたんだよ、私」
「そんな本当の言葉、ありがたくもないわぁ」
 本当に美人なので反論は不可な相手だった。これはストレスになる。前を降りて行く頭が憎たらしい。蹴倒したろか、その夜会巻き。
 その時、雪見ちゃんはくるりと振り返り、ひるんだ私に指を突きつけ、
「隆一朗がいたってね」
「はい?」
「あんたはここでパーティよ。私たちの獲物だもの」
初めから二人ともでしょ。言って、高らかに笑う。
あふれるような光の部屋に入る前一瞬、シルエットになった雪見ちゃんは、私の目にとても印象的に映った。

「葉月、こっちこっち」
そして光の真直中から、月見ちゃんが腕まで使って手招きをしている。出て行く前と違う位置、カウンター内に移動していた。
城くんの横。その城くんは、手ではショットグラスを磨きながら、心配そうな顔をよせて小さく囁く――
「呪えました? 無事に」
おい。
「呪わないんだってばっ」
「こら、葉月。早く見なさいよ、メールが来てるの」
「誰から」
「誰からとか訊きましたよ、この娘! どうしてくれる?」
「旬だから、雪の中マッチを売らせるってのはどう? こんな日だから誰かが買ってくれるかも」
「大変酔狂な夜ですからね」
「この店も相当だけどね」
「混乱の相を呈してきたわね」
 言えば言うだけ突き回されるので、もう何も言わずに私は画面を覗き込んだ。いつも見はしない発信者名に目を走らせたのは、無意識の私だった。
今さら何を言ってよこしたって、と反発する気持ちが胸で騒ぐ。
 ユカイな文章が並んでいる。アイウィッシュユーアメリークリスマス。英語をカタカナで理解している、お酒の入った私の頭の限界だ。
写真には大勢の人。大勢過ぎてはみ出してしまい、体の一部分だけ参加の人も多い。
なんだか。
今夜はなんでも、過ぎ過ぎていないか? なにもかも。
「ほんとにとってもメリーそう……」
 画面の写真のその向こうも、きっとこれほどの大騒ぎ過ぎ。大変酔狂で相当混乱してきたBGMの騒音は、おそらく同じようなものだろう。
私の知らない人ばかりに囲まれ過ぎた隆一朗は、愉快過ぎる顔で笑い過ぎている。
まったく。メリークリスマスそのものだ。
 鼻息も荒く目を反らそうとして、危うく止まる。
「ああっ」
楽しそうすぎる人たちの後ろに映った窓。かろうじて映れた窓の、向こうに見える小さな白は。
「雪だ、あっちも。雪だよね? これ白いのっ」
「んー? うーん。そう、かなぁ? 程度の確率でそんな感じ?」
「だって隆一朗、今朝雪だって言ってきたんだって。だからゼッタイ、まだ降ってる。絶対!」
「降ったら公園のくまはどうするんだろね」
「そんな日は小屋の中に入れるんじゃないですか?」
「くまって寒いの平気な生き物でしょ?」
「水の中で鮭取りますもんねぇ」
「鮭の季節って夏じゃないの?」
「冬は川が凍るんじゃない?」
私の送った呪いは、違う、クリスマスを祝う言葉は、もしかしてもう届いてしまって、これはその返事なの?
ううん、それは早すぎる。地球をぐるりと回らなくてはならないんだから。
でも地球はもしかして、とてもとても小さいのかも。そうか、私、見たことないんだった。手の中で転がすこともできるほどに小さいものなのかもしれない。
あっという間に届いたっておかしくないわ。空気に溶かした言葉だから。なにしろ、雪に載せたわけだし。
「すごい。届いたんだ」
 くま談義を放り出し、三人が口々に批判を始めたけれど、聞いていられるわけがない。私はスツールから飛び降りて、窓に駆け寄り空を見上げた。
人の声、車の音、判別不可能な音楽の上に、降りてくる降りてくる。
 メリークリスマスの輝く夜から、私たちにサービスだ。それならそれ、もう一回!
「メリークリスマス~」
 歌われる歌、止まらない会話、きらめき続けるイルミネーション、空は真っ黒、白い雪。
こたえが聞こえた気持ちになるのは、私が世界に酔い過ぎなんだと、雪見ちゃんの声がする。



© Rakuten Group, Inc.