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YUMEMIRUTOKI

YUMEMIRUTOKI

選択

選択
at 2002 04/08 17:26

人間は苦痛を耐えることができるようになっている。
そのしくみは、なんのためにあるのだろう・・・
苦痛があっても、生き延びるため??
もともと苦痛の中の人生を生きるため??
その体験を乗り越えるため??
いつか終わりが来るであろう、その体験をやりすごすため??

耐える人生を送っていると、
感情が麻痺するようなしくみがある。
感情が麻痺するから生き延びられる。
感情を麻痺させながら、生き続けるか、
それとも別の選択で、生き延びるのか。
人間とは、悩む葦なのであった・・・




自己犠牲と自己実現
at 2002 04/10 14:16

私の母は、7年前に倒れたの。そして左半身不随になったの。
主人が転職を機に父母の実家に引っ越そうと言ってくれたの。
その申し出を断った私を、私の友だちは、冷たいと思ったという・・・。
けれども、私は、主人を鳥取の地でも何回か転職しているのに、
こことは違ったまた、閉鎖的な地へ連れていくことに抵抗を感じたの。
私が独身であれば、迷うことなく帰っただろう。
けれども、相手の人生を巻き込むには、不安があったの。
住宅ローンを抱えていることさえ、
経済的な大変な上、線路際で売れる見込みのない、家をおいておいて、
石川の地で賃貸のアパートに移り住むのは
経済的にも大きな負担だったの。
妹はなんとかなるんじゃないって言ったの。
その心の裏には私が移り住むことを期待しているのを見て取れた・・・。
弟はひきこもりをしていたからね、介護で手一杯の父のかわりに、
接することのできる人は必要といえば、必要だったの。
父母も、願いは持っているのを感じたの。

でも、一番の不安は、そういうデメリットについて、
まるで考えることのない、主人を連れて、
介護の現場に望むことだったの。
もし、がんばれよ、俺が支えてやるから、という思いがあればね、
私はがんばってみたかもしれなかった。
でも、実は、母が倒れた時、私は次女を身ごもっていたけど、
本当は実家で出産したら、そのまま別居してしまいたい、と思っていたの。
介護の現場が厳しいのは目でみていたし、実際それに立ち会ってきていたから、
そこにデメリットと不安ある夫婦関係でのぞむのは
むずかしいと思った。
自己犠牲の道・・・美徳なんだけどな、でもそのことゆえに、
現実をみないでのぞめるだろうか。
私はいろんな視点から考えたの。
そして、出した結論は、今は動かない。けれども、
本当に介護の手が必要な状態になったら、私が子ども2人をつれて、
実家に移り住もう・・・・それが4年前だろうか。

本当に介護が限界になったとき、父と話をしたの。
父は母を施設に入れて、自分も同じ敷地内にある老人ホームに入る選択をしたの。
今、父は家事と介護から解放されて、ホームの友だちと好きな碁をうったり、
パチンコに行ったりしているの。
そして、その合間に密室の介護のような現実とはちがった、
静かな時を夫婦2人で過ごしているの。
弟は、今、なけなしの貯金をきりくずして、自活をしているの。
以前は父に食事も作ってもらっていたのだけど、
今は自分で買い物に出ている・・・。

私があの時、別の選択をしていたら、今のような
自分の夢を実現する人生を生きてはいないでしょう。
自己犠牲と自己実現。
その選択はむずかしい。



選択 その2
at 2002 04/08 18:27

人生にはふたつの選択がある。
関係を築いた方がいいという選択。
むしろ、関係を切った方がいいという選択。

その人の心が成長するために、そこにいることが
最善なのか。
それとも離れることで、その人がとことん自分と向き合う体験が必要だから、
選ぶのか。
これは魂のレベルでの選択。



選択 その3
at 2002 04/08 18:26

主よ、できることなら、この杯を去らせてください・・・

けれども、それが必要なことであるならば、
耐える力を与えてください。


離婚
at 2002 04/13 09:14

神の国として、スタートしたはずのアメリカでは離婚が日常茶飯事。
そして、それに準ずるかのように、
日本でも離婚率はますます高くなっている。
けれども、日本においては、まだまだ
離婚に対する認知度が低い。
アメリカで離婚がこれだけ増えたのは、
離婚はいけないことだという、キリスト教の縛りが
薄くなったからだろう。
そして、日本の場合も、世間体とかいった縛りが薄くなるに連れて、
離婚する夫婦が増えてきている。
その次に考えたのはこういうこと・・・
それは、結局何を意味するのだろう。
人々が結婚して家庭を築く上で何が大切なのかを
本当の意味で考えて生きていないからだよね。
子どものためだけに、体裁の為だけに、お金のために
家庭を存続させる・・・
時には気持ちが切れていても、家庭以外のところで不倫の関係を築いてでも、
形だけの家庭を存続させていれば、よしとする考えがそこにあったりする。

夫婦であること・・・
本当に人と人との関係が築かれていればね、
一人で生きる人生よりも、もっと豊かに生きることができるでしょう・・・
そこにどんな困難なことがまちうけていても。

私は思うの。
離婚という話題を持ち出すとね、人は皆、「もっとお互いが話をしろ」とか
「子どものことを考えて」っていう。
けれども、本当に目を向けないといけないのは、
その人が離婚するほどに傷ついているものがそこにあるってことだよね。
世間では受け入れられない、離婚であるにもかかわらず、
それを考えるほどの何かがそこにあるってことなんだよね。
DVであっても、夫婦を続けることを説得する、相談員。
カウンセラーでさえも、夫婦を続けることを解く・・・
気持ちを理解するのではなく。
もしも、相手が、自分の伴侶は離婚を考えるほど傷ついていたのか、と
理解するような心をもっていたらね、
もしくは、2人の夫婦関係には何がたりなかったのだろう、と
向き合う気持ちを持っていたらね、
そうしたら、お互いの間にある溝を埋める会話が始まるのかもしれない。



違うと思ったの
at 2002 04/13 09:19

何かが違うって。
これだけ、離婚する人たちが増える一方で、
世間はまだその人たちを認知しようとはしない。
たとえ、子供のためだけであっても、
たとえ、DVが存在したとしても、
それでもなお、家庭に留まることをすすめる。
理解し合えないのが当然で、
人間だから理想なんてありえない。
それでも、違う、って思うの。
何かがたりないから、みんな満たされない。
そのたりないものがなんなのかって
考えて努力しないから、
その溝は埋まらない。
信頼すること、理解しようとすること、
支え合おうと努力すること、
人間関係において
大事なことを忘れてしまっているんだよね。



居場所
at 2002 04/14 07:43

まだ乳飲み子の子どもを連れて、
離婚したという方と話をしたの。
鳥取でも、離婚をしたという方は多い。
保育園の同級生のお母さんで、
しかも親しくされていた方が2人も
以前に時期を同じくして離婚したの。
あの頃はまだ、
どう話をすればよいのかわからなかった・・・
でも、今はわかるの。
それが厳しい道であっても、
選択するということがどういうことなのか・・・
その自分の心を吐露するだけで、
彼女は居場所を感じてくれた。
周りの友だちは、みんな幸せなように見えて、
居場所がないって思っていたって。
小さな言葉のやりとりだったけど、
見えない心がつながりあった、
瞬間がそこにあった・・・



祈り
at 2002 04/15 08:12

彼女は、聖書が好きだったの。
クリスチャンではなかったけど、
イエスの言葉が大好きだった。
そして、遠藤周作の描くイエス像が好きだった。
そこに描かれたイエスは、
聖人としてのイエスではなく、
人間としての心の弱さを持ちながら、
それでも神の御旨をなそうとする、イエスだった。
その遠藤周作の描く世界を、異端だという人もいたらしいけど、
それでも、彼女はそのイエスが好きだった。
特に好きだったのは、
イエスが愛したのは、
美しいもの、愛しいと思えるものではなくて、
人が見向きもしない、存在だというような言葉。
愛せるものを愛することは簡単。
けれども、人が愛せないと思うものを愛することはむずかしい。
その愛をイエスは常に行動で示していた・・・
彼女もそのような愛を持ちたいと思った。
その愛を形にすることは、
決して楽な道ではなかったの。
その歴史は、彼女だけのもの・・・

ところが、ある日、彼女の心が暴走した。
彼女は、自分の中の涙に気付いた。
そして、その涙が傷ついていた自分の心だと知ったとき、
彼女ははじめて愛する勇気を失った。
愛することが全てだと信じていたにもかかわらず。
目覚めなければ、よかった・・・と彼女は思った。
そうすれば耐えることを続けていられたかもしれない。
でも、知ってしまったことで彼女は耐える勇気を失った。
そして彼女は祈る・・・
それでも、愛せよとあなたは言われるのですか。



沈黙
at 2002 04/15 08:31

その沈黙の意味を
瞬間的にかいま見ることがある。
たとえ、目の前にいなくても。
本当は、その沈黙が
一番大きな想いを抱えているのかもしれない。

神は、この世界を創ったのは、
人々が不幸になるためではなかった。
それを選択しているのは人々。
自らの想い、が自らの現実を作り出す。
そして、神はただ、見ている。



自己犠牲と自己実現
at 2002 04/15 08:33

ただ、ポリアンナのように、
自己犠牲の選択を、自ら選んだもののみが、
自己犠牲と自己実現を矛盾しないで
存在させることができる。



素直であること
at 2002 04/17 09:05

昔の私のように素直な私に戻って・・・と言われたの。
男性は、素直な女性がお好みらしいですね。
でも、素直ってなんでしょう。
なんでも「はい」という古風な昔ながらの女性を
意味するってことかなあ。
魂のレベルからいったら、女性と男性とは変わらないはずなのです。
ホルモンバランスと肉体的な構成が少し違うだけ。
それぞれ、男性、女性という立場が違うだけ。
社会的に、また生物学的に、その性が違うことによって、
体験が異なるだけ。
過去の私は、女性であることに甘んじていたの。
依存しないと生きていけないような、弱い存在。
でも、逆にたくましく生きる自信がなかったから、
女性であることに満足していたの。
ところが、そのように保護される位置を与えてもらえなかった結果、
私の意識は目覚めてしまった。
女性でありながら、社会で仕事をして生きていかなければならない。
専業主婦として、甘えさせてもらえなかったから・・・。
智恵子抄を思い出したの。
だんなさまに愛されているように見える、彼女の心は何故壊れたの?
私はあの詩が好きだったの。
そんなにもしてあなたはレモンを持っていた、で始まる、レモン哀歌。
一見素直そうに見える、彼女の心には、実は満たされない想いがあった・・・。
それを表面に出すことができなかった。
彼女の中の葛藤を、私は見るように気がする・・・。



愛・素直・いい女・・・そして、極道の妻
at 2002 04/19 09:42

これって何・・・と人は思うかもしれない。
はい、ただの連想ゲームです。
いい女ってどんな女のことをいうのかしら、
大人の女のことかしら、なんてイメージしていたら、
そのうち思い浮んだのが、
極道の妻たちの映画でした。
私とは、絶対無縁の世界だと思うのですが、
それでも何故か、あの映画に惹かれました。
それは、たぶん、私の中にはない世界を描いていたからでしょう。
女たちのしたたかな生き方。
極道の男たちが、半端なチンピラではやっていけないように、
極道の妻たちも、半端な女じゃついていけない世界。
常識を超えた世界で、極道の世界の仁義を通す・・・。

結局、この三次元の世界は、矛盾だらけなのです。
正しい論理なんて、論理だけの世界かもしれない。
光と影が物質の世界で交錯するように、
愛と憎しみが交錯するのです。
そのどちらかが間違っているという問題ではなくって、
何を選択するかでしょう。
どういう人生を選択するのか。
過去の私は愛することができました。
過去の私は素直でした。
だけどそれが正しかったかどうか、とは別なのです。
あの時私が愛せたのは、あなたを信じることができたから。
あの時私が素直だったのは、確固とした自分を表に出せなかったから。
そして、未来は私がどう生きるかにかかっているのでしょう。
いい女ね、そうね、感情をコントロールして、
したたかに生きている女性を想像してしまう・・・
それも私とはちょっとイメージが違うかな。
えっ、だって私は永遠にアン、ですもの。



矛盾
at 2002 04/19 21:04

他人の中の矛盾はよく見える。
けれども、
自分の中の矛盾は見たくない。
自分の中の矛盾が見えるようになったとき、
人ははじめて、
ありのままの自分を受けとめられるように
なるのかもしれない。
弱さを認めたくない自分、未熟な自分、
いい子をよそおう、自分。
強く見せたい自分・・・
いろんな自分がある。
自分の想いとはうらはらの言葉を
はいてしまうこともある・・・
そんな自分を素直に認められるようになったとき、
人は自分と向き合うことができるようになる・・・。


選択 その4
at 2002 05/06 20:39

ある人にとっては今目の前にある、現実がすべてだったりする。
今ある状況をいかに生き抜くか・・・
でも、ある人にとっては、
めざすものが先にあって、今抱えている現実は、
その下積みのものだったりするの。
同じ時代を生きながら、捕らえ方が違う。
どう生きるかは、その人の選択にかかっている。


選択 その5
at 2002 05/19 10:41

>宇宙との一体感を感じて至高の感覚を感じた次の瞬間には
>しなければいけない仕事がまっていて憂鬱になります。
>その繰り返しが生きるって事だと私は理解しています。

そう・・・現実は、理想とはほど遠いところにあるの。
つねに、その思い描く理想と、厳しい現実とのギャップに
悩みながら人は生きているのでしょう。

光と影の世界のなかにいて、
私たちが考えなければならないことがあると思うの。
何を選択するのか。
神は、支配するのではなく、
沈黙の中でただ見守っている。
支配すると解くのは歴史の中の支配者たち。
沈黙の中で、
あなたは、愛を選択しますか?
それとも憎しみを選択しますか?
人を傷つけることを選択しますか?
人を癒すことを選択しますか?



光と影
at 2002 05/19 12:20

人の心が現象として映し出されます・・・
心の中の影の部分が、行為となってあらわれます。
私は昨夜考えていました。
どうしたら、人の心ならず、肉体までも傷つけるような
行為をやめさせることができるのかなって。
人々の心は、幻魔大戦のような現実の中におかれているような気がします。
たぶん、世の中を塗り替えていくためには、
100匹の猿の原理でいくしかないでしょう。
今はあまりに影をコントロールできない人々が増えています。
影の存在を消すことはできません。
何故なら、影は愛の欠如した心の部分だからです。
だから、影は愛によって光に変えていかなければならないのです。
光が増えることによってのみ、影の影響は小さくなります。
人々の心が光で満たされるように、
私は、私の思いを伝えていこうと思います。


自然な流れ
at 2002 06/04 18:05

鳥や花のように生きることは、究極の受容の中にある、と
友だちが書き込んでくれた。
(あんの部屋の掲示板参照のこと)
そうだよね、究極の受容は、自然の流れの中で生きること。
でもね、気をつけないといけないことは、
人間社会の中には自然の流れではない流れも存在していること。
たとえば、政治的な流れ。
たとえば、地域社会の枠組み。
・・・・私の母は、片田舎の人の目を気にするあまり、
高血圧が高じて、脳溢血で倒れたの。
母親は、昔から世間を気にして生き、世間の枠組みの中で
優等生の人生を生きてきていたの。
私は、その母の影響で、よい妻、よい母親の枠組みを
自分の中に設定していたの。
けれども、それが昨年パンクしたの。
それまで、受容することが愛だと思っていたの。
価値観の違いを受け入れて、
相手の要求を受け入れて、
そして与えられた現実を受け入れる。
けれども、その枠組の中には、自然の流れでは
ない部分も存在していたの。
自然体。
私は私らしく、我が儘に押し通すのではなく、
その自然な流れを見極めること。
それが今の私に課せられた課題なのかもしれない。



ただひたすら、書く
at 2002 06/05 19:36

ただひたすら、書く。
自分の思いを見つめるために、
自分の中の気づきをとりだすために、
私が私らしくあるために、
生きる力を得るために、
現実の厳しさとむきあうために、
マイナスの思いを転換するために、
明日を輝かせるために、
夢を実現するために。



夜明け前が一番暗い
at 2002 06/05 21:20

そんな言葉をふと、思い出したの。
夜明け前が一番暗い・・・
その言葉を聞いたとき、
私の夜明け前は、過去に終わっていたと思っていたの。
そういう転機を何度か経験していたから。
けれども、
今もまた、夜明け前が訪れているんだなって思った。
いつかは、夜が明けて、新しい朝が来る。
それは、私にとっての新しい朝。
でも、その渦中にいるときには、永遠にその状態が
続くような気がしている。
それが耐え難いと感じるのかもしれない。
以前もそうだった。
誰かを変えようとも思わなかったし、
傷ついた自分があっても、誰かを憎もうとも思わなかった。
ただ、その時自分ができる、精一杯の自分を生きただけだったの。
そして、時が来て、夜が明けた。
確かに無意味に時は過ぎていない。
確かに何かが変わりつつある・・・。




at 2002 06/08 19:00

愛、を思い描くとき、
心は広がっていく・・・
悩み、を抱え込むとき、
心は縮んでいく・・・
あなたは、どちらを選びますか。



人生
at 2002 06/25 08:14

私が、私らしくあることを
私は今学んでいる。
誰かの言葉に影響を受けるのではなく、
誰かのために人生を生きるのではなく、
ただ、魂が必要とする
体験を選択している。



選択 その6
at 2002 06/25 12:17

どの選択が正しいとか、
間違っているとか、
決めるのは誰・・・
どの選択をしたとしても、
その人の人生。
その体験は、その人のもの。



思考停止
at 2002 06/26 16:43

自我の領域では思考停止。
あとは、魂の領域にあって、
静観していようて思います。

もう私になすすべはない。
私はただ、あらゆる選択を
考えただけ。

何が正しいか、
ではなくて、
どこへ導かれていくのか、
ワクワクする想いで
待つことにしましょう。



思考停止 その2
at 2002 06/28 22:05

思考停止ってね、
なんとなく、考えるのをやめて
自分に背を向けているような感じがするよね。
でもね、
その状態においてみたら、
すごいことに気づいたのです。
思考停止って、
瞑想に似ているのかもしれない。
あれこれと考えることをやめてしまう。
それって、思い浮かぶ想念をふりはらって、
無心の状態に身を置いているのと同じなのかも。
鼻で息をしていることに集中するかわりに、
台所にたって、とんとんと単調な包丁さばきをしていると、
ひょいとインスピレーションがきたりするものなのです。
そして、考えるのではなく、
見えてくるものだけを拾い集める・・・
これって大事な作業かも。



ふっきる・・かあ
at 2002 06/29 13:31

というより、
余計なことを考えなくなったってことかな。
繰り返し、思い煩ってみても
現実が変わらないから。

そして、ついには、
怖れることをもやめてしまった。
傷つく自分を越えることができることに
気付いてしまった。

私は、ただ、
私らしくあればいいんだ。



私らしく・・・ということ
at 2002 06/29 13:37

世の中には、
周りを気にして
おびえるように生きている人がいる。
その反対に、
自分の思うまま、を越えて我が儘に
生きている人もいる。

常にバランスをとって生きればいいんだ。
どちらかに偏るのではなく。





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