壮大なロマン
壇ノ浦の戦いで破れた平家。平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将・平大納言時忠の末裔と呼ばれる時国家を昨日訪ねてきました。その時に平時忠は、生きたまま捉えられ自らの身の安全をはかるために娘を源義経に差出し、三種の神器である神鏡を義経に与えたといいます。その後、石川県珠洲市に流されました。義経が源頼朝から追討されるようになったのも義経が時忠の娘婿になったためでありました。義経は、弁慶を伴って石川県を訪れることとなったのはその時忠に会いにくるためでもあったそうです。加賀の地にも能登の海岸のあちらこちらにその義経と弁慶が残した足跡があるのはそういうことだったのですね。もちろんその一行には、時忠の娘も伴っていました。さて、このような歴史的背景を知ったのは、ネットで調べてのことです。というのも、20数年前にはじめて時国家を訪ねたときに私の家の家紋が、平家の家紋とほぼ同じであることを知りました。(見比べていないので正確さはかけますよね)父は、親戚づきあいを嫌っていて家系のことなど一切話さなかったのですけどもしかしたら、先祖は平家の落ち武者であったかも、と思っておりました。今朝そのあげはちょうの紋のことを調べるうちに、この時忠の先祖が桓武天皇に行き着き、桓武天皇の流れの平家があげはちょうの紋を用いていることを知りました。近代大名である池田家の藩主もあげはちょうの紋を用いたそうですけど、その池田藩は私の縁のある岡山と鳥取であったというのも不思議なつながりですよね。三種の神器が、時忠のもとにあったというのは、歴代天皇をしめす宝が受け継がれてきていたということです。さて、私の家系は平家の流れであるかそうでなければ、その平家に大きな功労を残した武士として紋を与えられたかのどちらかなのかもしれません。不思議なのは、ふと思い出された一枚の絵です。その絵は、中学の頃病死したという父の兄弟の書いたものでした。淡い水彩画タッチのもので、その画風がまるで私の書く絵にそっくりだったんですよ。なぜかそれだけは今も右脳にインプットされています。昭和の時代に書いたものとは程遠い雰囲気の絵でした。公家の着物を着た男性が座っているところが描かれていたのです。まるで、平家の末裔であることを私の記憶の中に残すために描かれた絵のようではありませんか。もしもその先が桓武天皇にまで結びつくとなれば、私が鳥取の地に移り住むようになって、日本書紀に興味を感じるようになったことにも通じてきますよね。壮大なロマンを感じるストーリーですよね♪