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「ママ」「ダディ」「グランパ」・・・・
「おカアチャン」「お母さん」「お母様」「お袋」・・・ 「おとーちゃん」「お父さん」「お父様」「おやじ」・・・・ 親の呼び方は様々。その家なりの心のこもった呼び方がある。 それは、甘く、切なく、心に染みる呼び方である。 口の中で転がせば、甘酸っぱい思いが満ちてくる。 それが家の中での家族の呼び方。 だが、一歩外へ出たらその呼び方はどうだろう。 この頃、テレビやラジオなどでとても気になる言葉がある。 テレビにでているタレントさんがこう言う。 「うちのお父さんがね・・・・て、言うんですよ」 「僕のお母さんですかぁ・・・・・」 インタビューしているアナウンサーも 「お母さんがそう言ってましたか」 と受け答えする。 以前自分の親を公共の場面で言うときは「父は・・・」「母は・・・」と言う言葉で表現した。それが当たり前の礼儀として通用していた。 ところがどうだろう。この頃の対談で、若い人がでてくるときは大概「お母さんが」「おとうさんが」「おじいちゃんが」「おばあちゃんが」と身内の言葉遣いをすることが多く、はっきり「母が」「父が」と言い換えている人は殆ど見かけない。 確かに「父が」「母が」と言う風に使うと言葉が硬く見えるかもしれない。 若い子達はそれを無意識に嫌がっているのかも知れない。 そういえば、学校でも生徒と先生がタメ語で話し合うのが普通らしい。 だが、それを良しとして良いものだろうか。 民俗文化の分野では日常の生活を「ケ」と「ハレ」に分けることができる。「ハレ」とは行事や等の非日常の時間、空間及びそこで行われる人々の行動をいう。「晴れ着」の「晴れ」である。他方、「ケ」とは日常の生活のことである。 以前まで「ケ」と「ハレ」の区別は厳密にされてきた。 家と外の区別。日常と非日住の区別は、しきたりと言うよりも、社会のルールとして存在し、その区別を身につけることができて大人とされた。 しかし、この頃この「ケ」と「ハレ」の区別がなくなってきている。これは、現代的なのかもしれないが、「ケ」と「ハレ」は流行語のように扱われた”清貧”という言葉とあわせて、大切な日本の心のように思う。 生活を区別することは無いではないか。それは貧しかった時代の置き土産である。という声もあろう。だが、家と外を区別することによって他人への思いやりも気配りも、我慢も、自然にできるようになっていたと思う。 それが、社会でお互いに自然に付き合えるルールであったはずである。 そのルールの崩壊は、社会秩序の崩壊へと繋がりかねない。 「自分だけが良ければ」「誰にも迷惑かけてないじゃん・・」という言葉が氾濫してくる。社会のタガが無いのだから、それをどう否定し、更正させるかその手段も見つからない。そこにはカオスと化した現実が広がっている。 これから社会に即応した何かが見つかれば良いのだが。と思わざるを得ない。 せめて、人前では「お父さんを」「父」と、お母さんを「母」と言い換えてみよう。 なんかちょっと大人っぽく聞こえないかい? 若者諸君。 まさか、就職活動の面接で「家のおとーさんの職業は・・・」なんて言えないだろうと思うのだが。これもありなら・・・・私が古いか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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