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何事も人から認められるまで頑張ることは並大抵の努力ではできない。
ましてやプロとなるためには「好きこそものの・・・」の世界を超えなければならない。 華麗にピアノを奏でるピアニストの手。白く繊細で美しいだろうなぁ・・などと決して思ってはならない。 外国の男性のピアニストで手が信じられないほど大きい人ならば話は変わって、白くすんなりとした美しい手の持ち主であるかも知れないが、普通の日本人ピアニストだったらどうだろう。そう綺麗な手の持ち主を見かけない。 私の娘は一時期ピアニストを目指していた時代がある。 小学2年生から中学3年の8月まで。 彼女の人生の中の一時期とはいえないほどの長い時間。 彼女がピアノが好きで好きで堪らなかったか、といえばそうでもなかったような気がしてくる。何か流されるような感じで頑張ってしまった。というところが正解だろう。 毎日欠かさず3時間を越す練習。週末は先生のところでのレッスン。聴音もコーリューブンゲンも。そんな生活が8年間。十分すぎるほどの長さだった。 小さな手でリストを弾く。もともとリストの曲は音が飛ぶ。和音が大きい。手の小さい人はそれをテクニックで補わなければならない。無理がかかる。 そんなこんなの結果、彼女の左の薬指は弾き易いように湾曲してしまった。 こんなことはピアニストを目指す人の中で特に目立ったことではない。 日日たゆまぬ努力があってその上で前進する。 それはバレリーナであれ、体操選手であれ、バイオリニストであれ、何であれみんなそうである。 バレリーナのパ・デュ・デュは美しい。 しかし、そこまで美しく踊るために、トウシューズのに慣れるまでにどれだけの努力と痛みがあったか図り知れないものがある。 にこやかに踊る笑顔は、たゆまぬ努力のとそれに裏付けられた自信の証しである。 水鳥は姿は美しく見えるが、水面下では沈まぬように絶え間なく脚を動かし続けているという。人の目には水面上の優雅な姿しか見えない。それと同じである。 プロに成れるのはそのまた一握り。人に知られるプロになるのはまたその一握り。 当人の才能が大切であるが、その上に努力が、克己心が、運が無くては大成しない。 しかしたとえプロになれなくても努力したことは残る。あれだけ頑張れたのだからという気持ちが人生の支えになるに違いない。 私の娘はといえば、忘れもしない中学3年の夏休み。突然にピアノで芸大の音楽付属に行くのは止めると宣言した。どの先生からもこのまま行けば。と言っていただけたるようになった矢先の決意。そして普通の高校生になった。 手だけがピアニストを目指した名残になった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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