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カテゴリ:社会
日本歴代最長任期を勤め上げた故安倍晋三さん。
その激務と日本のリーダーとしての価値を二人の元総理の追悼演説から受け取ることが出来ます。 とても感動しましたので、二人の全文を掲載させていただきます。 何かを感じて下さい。 まずは菅義偉さん。 七月の、八日でした。 信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。 あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。 その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。 あの、運命の日から、八十日が経ってしまいました。 あれからも、朝は来て、日は、暮れていきます。 やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。 季節は、歩みを進めます。 あなたという人がいないのに、時は過ぎる。 無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます。 天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか。 口惜しくてなりません。 哀しみと、怒りを、交互に感じながら、今日の、この日を、迎えました。 しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。 ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。 二十代、三十代の人たちが、少なくないようです。 明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。 総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。 若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。 そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。 ―これが、あなたの口癖でした。 次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。 いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。 報われた思いであります。 平成十二年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。 私は、当選まだ二回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。 すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。 「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。 信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。 その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感しました。 この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。 私が、生涯誇りとするのは、この確信において、一度として、揺らがなかったことであります。 総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。 そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶんと迷っておられました。 最後には、二人で、銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命、あなたを口説きました。 それが、使命だと思ったからです。 三時間後には、ようやく、首をタテに振ってくれた。 私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。 総理が官邸にいるときは、欠かさず、一日に一度、気兼ねのない話をしました。 いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざと、よみがえってまいります。 TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。 総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。 一歩後退すると、勢いを失う。 前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。 総理、あなたの判断はいつも正しかった。 安倍総理。 日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立させることができました。 どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。 あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。 国難を突破し、強い日本を創る。 そして、真の平和国家日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。 そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。 いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。 総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした七年八か月。 私は本当に幸せでした。 私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。 何度でも申し上げます。 安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。 衆議院第一議員会館、千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。 岡義武著『山県有朋』です。 ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。 そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。 しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。 総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。 かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ 深い哀しみと、寂しさを覚えます。 総理、本当に、ありがとうございました。 どうか安らかに、お休みください。 令和四年九月二十七日 前内閣総理大臣、友人代表 菅義偉 続いて野田佳彦さん。 享年67歳。あまりにも突然の悲劇でした。 政治家としてやり残した仕事。次の世代へと伝えたかった思い。そして、いつか引退後に昭恵夫人と共に過ごすはずだった穏やかな日々。 全ては、一瞬にして奪われました。 政治家の握るマイクは、単なる言葉を通す道具ではありません。人々の暮らしや命がかかっています。マイクを握り日本の未来について前を向いて訴えている時に、後ろから襲われた無念さはいかばかりであったか。改めて、この暴挙に対して激しい憤りを禁じ得ません。 私は、生前のあなたと、政治的な立場を同じくするものではありませんでした。しかしながら、私は、前任者として、あなたに内閣総理大臣のバトンを渡した当人であります。 わが国の憲政史には、101代、64人の内閣総理大臣が名を連ねます。先人たちが味わってきた「重圧」と「孤独」をわが身に体したことのある1人として、あなたの非業の死を悼み、哀悼の誠をささげたい。 そうした一念の下に、ここに、皆さまのご賛同を得て、議員一同を代表し、謹んで追悼の言葉を申し述べます。 安倍晋三さん。あなたは、昭和29年9月、後に外務大臣などを歴任された安倍晋太郎氏、洋子様ご夫妻の次男として、東京都に生まれました。 父方の祖父は衆議院議員、母方の祖父と大叔父は後の内閣総理大臣という政治家一族です。「幼い頃から身近に政治がある」という環境の下、公のために身を尽くす覚悟と気概を学んでこられたに違いありません。 成蹊大学法学部政治学科を卒業され、いったんは神戸製鋼所に勤務した後、外務大臣に就任していた父君の秘書官を務めながら、政治への志を確かなものとされていきました。そして、父晋太郎氏の急逝後、平成5年、当時の山口1区から衆議院選挙に出馬し、見事に初陣を飾られました。38歳の青年政治家の誕生であります。 私も、同期当選です。初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りを取り囲む、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明に覚えています。そこには、フラッシュの閃光(せんこう)を浴びながら、インタビューに答えるあなたの姿がありました。私には、その輝きがただ、まぶしく見えるばかりでした。 その後のあなたが政治家としての階段をまたたく間に駆け上がっていったのは、周知のごとくであります。 内閣官房副長官として北朝鮮による拉致問題の解決に向けて力を尽くされ、自由民主党幹事長、内閣官房長官といった要職を若くして歴任した後、あなたは、平成18年9月、第90代の内閣総理大臣に就任されました。戦後生まれで初。齢52、最年少でした。 大きな期待を受けて船出した第1次安倍政権でしたが、翌年9月、あなたは、激務が続く中で持病を悪化させ、1年余りで退陣を余儀なくされました。順風満帆の政治家人生を歩んでいたあなたにとっては、初めての大きな挫折でした。「もう二度と政治的に立ち上がれないのではないか」と思い詰めた日々が続いたことでしょう。 しかし、あなたは、そこで心折れ、諦めてしまうことはありませんでした。最愛の昭恵夫人に支えられて体調の回復に努め、思いを寄せる雨天の友たちや地元の皆さまの温かいご支援にも助けられながら、反省点を日々ノートに書きとめ、捲土(けんど)重来を期します。挫折から学ぶ力とどん底からはい上がっていく執念で、あなたは、人間として、政治家として、より大きく成長を遂げていくのであります。 かつて「再チャレンジ」という言葉で、たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、その言葉を自ら実践してみせました。ここに、あなたの政治家としての真骨頂があったのではないでしょうか。あなたは、「諦めない」「失敗を恐れない」ということを説得力をもって語れる政治家でした。若い人たちに伝えたいことがいっぱいあったはずです。その機会が奪われたことは誠に残念でなりません。 5年の雌伏を経て平成24年、再び自民党総裁に選ばれたあなたは、当時内閣総理大臣の職にあった私と、以降、国会で対峙(たいじ)することとなります。最も鮮烈な印象を残すのは、平成24年11月14日の党首討論でした。 私は、議員定数と議員歳費の削減を条件に、衆議院の解散期日を明言しました。あなたの少し驚いたような表情。その後の丁々発止。それら一瞬一瞬を決して忘れることができません。それらは、与党と野党第1党の党首同士が、互いの持てる全てを賭けた、火花散らす真剣勝負であったからです。 安倍さん。あなたは、いつの時も、手ごわい論敵でした。いや、私にとってはかたきのような政敵でした。 攻守を代えて、第96代内閣総理大臣に返り咲いたあなたとの主戦場は、本会議場や予算委員会の第1委員室でした。 少しでも隙を見せれば、容赦なく切りつけられる。張り詰めた緊張感。激しくぶつかり合う言葉と言葉。それは、一対一の「果たし合い」の場でした。激論を交わした場面の数々が、ただ懐かしく思い起こされます。 残念ながら、再戦を挑むべき相手は、もうこの議場には現れません。 安倍さん。あなたは議場では「闘う政治家」でしたが、国会を離れ、ひとたびかぶとを脱ぐと、心優しい気遣いの人でもありました。 それは、忘れもしない、平成24年12月26日のことです。解散総選挙に敗れ敗軍の将となった私は、皇居で、あなたの任命式に、前総理として立ち会いました。 同じ党内での引き継ぎであれば談笑が絶えないであろう控室は、勝者と敗者の2人だけが同室となれば、シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんの方でした。あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、「お疲れさまでした」と明るい声で話しかけてこられたのです。 「野田さんは安定感がありましたよ」 「あの『ねじれ国会』でよく頑張り抜きましたね」 「自分は5年で返り咲きました。あなたにも、いずれそういう日がやって来ますよ」 温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです。 その場は、あたかも、傷ついた人を癒やすカウンセリングルームのようでした。 残念ながら、その時の私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。でも、今なら分かる気がします。安倍さんのあの時の優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを。 第1次政権の終わりに、失意の中であなたは、入院先の慶応病院から、傷ついた心と体にまさにむち打って、福田康夫新総理の任命式に駆けつけました。わずか1年で辞任を余儀なくされたことは、誇り高い政治家にとって耐え難い屈辱であったはずです。あなたもまた、絶望に沈む心で、控室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね。 あなたの再チャレンジの力強さとそれを包む優しさは、思うに任せぬ人生の悲哀を味わい、どん底の惨めさを知り尽くせばこそであったのだと思うのです。 安倍さん。あなたには、謝らなければならないことがあります。 それは、平成24年暮れの選挙戦、私が大阪の寝屋川で遊説をしていた際の出来事です。 「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でおなかが痛くなっては駄目だ」 私は、あろうことか、高揚した気持ちの勢いに任せるがまま、聴衆の前で、そんな言葉を口走ってしまいました。他人の身体的な特徴や病を抱えている苦しさをやゆすることは許されません。語るも恥ずかしい、大失言です。 謝罪の機会を持てぬまま時が過ぎていったのは、永遠の後悔です。いま改めて、天上のあなたに、深く、深くおわびを申し上げます。 私からバトンを引き継いだあなたは、7年8カ月余り、内閣総理大臣の職責を果たし続けました。 あなたの仕事がどれだけの激務であったか。私には、よく分かります。分刻みのスケジュール。海外出張の高速移動と時差で疲労は蓄積。その毎日は、政治責任を伴う果てなき決断の連続です。容赦ない批判の言葉の刃を投げつけられます。在任中、真の意味で心休まる時などなかったはずです。 第1次政権から数え、通算在職日数3188日。延べ196の国や地域を訪れ、こなした首脳会談は1187回。最高責任者としての重圧と孤独に耐えながら、日本一のハードワークを誰よりも長く続けたあなたに、ただただ心からの敬意を表します。 首脳外交の主役として特筆すべきは、あなたが全くタイプの異なる2人の米国大統領と親密な関係を取り結んだことです。理知的なバラク・オバマ大統領を巧みに説得して広島にいざない、被爆者との対話を実現に導く。かたや、強烈な個性を放つドナルド・トランプ大統領の懐に飛び込んで、ファーストネームで呼び合う関係を築いてしまう。 あなたに日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、こうした信頼関係は生まれなかったでしょう。ただ、それだけではなかった。あなたには、人と人との距離感を縮める天性の才があったことは間違いありません。 安倍さん。あなたが後任の内閣総理大臣となってから、一度だけ、総理公邸の一室で、ひそかにお会いしたことがありましたね。平成29年1月20日、通常国会が召集され政府四演説が行われた夜でした。 前年に、天皇陛下の象徴としてのお務めについて「おことば」が発せられ、あなたは野党との距離感を推し量ろうとされていたのでしょう。 2人きりで、陛下の生前退位に向けた環境整備について、1時間余り、語らいました。お互いの立場は大きく異なりましたが、腹を割ったざっくばらんな議論は次第に真剣な熱を帯びました。 そして、「政争の具にしてはならない。国論を二分することのないよう、立法府の総意を作るべきだ」という点で意見が一致したのです。国論が大きく分かれる重要課題は、政府だけで決めきるのではなく、国会で各党が関与した形で協議を進める。それは、皇室典範特例法へと大きく流れが変わる潮目でした。 私が目の前で対峙した安倍晋三という政治家は、確固たる主義主張を持ちながらも、合意して前に進めていくためであれば、大きな構えで物事を捉え、のみ込むべきことはのみ込む。冷静沈着なリアリストとして、柔軟な一面を併せ持っておられました。 あなたとなら、国を背負った経験を持つ者同士、天下国家のありようを腹蔵なく論じ合っていけるのではないか。立場の違いを乗り越え、どこかに一致点を見いだせるのではないか。 以来、私はそうした期待をずっと胸に秘めてきました。 憲政の神様、尾崎咢堂は、当選同期で長年の盟友であった犬養木堂を五・一五事件の凶弾で失いました。失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。 「人生の本舞台は常に将来に向けて在り」 安倍さん。 あなたの政治人生の本舞台は、まだまだ、これから先の将来にあったはずではなかったのですか。 再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった。 勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん。 耐え難き寂寞(せきばく)の念だけが胸を締め付けます。 この寂しさは、決して私だけのものではないはずです。どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心の中に、あなたの在りし日の存在感は、いま大きな空隙(くうげき)となってとどまり続けています。 その上で、申し上げたい。 長く国家のかじ取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならない定め(運命)です。 安倍晋三とはいったい、何者であったのか。あなたがこの国に遺(のこ)したものは何だったのか。そうした「問い」だけが、いまだ中ぶらりんの状態のまま、日本中をこだましています。 その「答え」は、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。 そうであったとしても、私はあなたのことを、問い続けたい。 国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちと共に言葉の限りを尽くして問い続けたい。 問い続けなければならないのです。 なぜなら、あなたの命を理不尽に奪った暴力の狂気に打ち勝つ力は、言葉にのみ宿るからです。 暴力やテロに、民主主義が屈することは、絶対にあってはなりません。 あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは、言論の力を頼りに、不完全かもしれない民主主義を、少しでもより良きものへと鍛え続けていくしかないのです。 最後に、議員各位に訴えます。 政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。 暴力にひるまず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。 民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。 真摯(しんし)な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱(きょうじん)なものへと育てあげていこうではありませんか。 こうした誓いこそが、マイクを握りながら、不意の凶弾に斃(たお)れた故人へ、私たち国会議員がささげられる、何よりの追悼の誠である。 私はそう信じます。 この国のために、「重圧」と「孤独」を長く背負い、人生の本舞台へ続く道の途上で天に召された、安倍晋三元内閣総理大臣。 闘い続けた心優しき1人の政治家の御霊(みたま)に、この決意を届け、私の追悼の言葉に代えさせていただきます。 安倍さん、どうか安らかにお眠りください。 総理大臣経験者でしか分からない心情、心から尊敬し合う同志としての友情、同志を突然失った無情に感動しました。 安倍晋三さんの生き様が、はっきりと見えた死に様でした! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2022年10月27日 21時35分35秒
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