「愛の窓」から観ること by ゆんたま
昨日、「ダウト」という映画を観てきた。ある修道院が運営するミッションスクールで、校長を務める修道女が司祭に対してある疑い(=ある男子生徒に不純な関係を強要したのではないか)を抱き、最終的に嘘をついてまでその司祭を学校から追い出してしまうというストーリーである。最後の場面で、校長は若いシスターに、「私はどうしても疑いの気持ちを持ってしまう」と泣きながら告白する。でも結局この映画は一体何を言いたかったのか、その時の私にはよくわからなかったのだけど、一緒に観た相棒は「いいメッセージだったと思うよ」と言っていた。帰ってきてからいろいろ考えてみると、私はちょうど今、愛とは、怖れを手ばなすことという本の「今日私は、何が起こっても裁こうとしない」という項目を読んでいるところだった。あの校長はなぜ司祭を疑って、あげくに学校から追放したのかと考えると、彼女は自分の中で司祭を裁いたのだと思った。厳格な彼女は、子供たちのいたずらや不適切な行為をいち早く見つけだすような人間で、いつも誰かの罪を指摘している。彼女に許しや寛容という言葉はない。確かに彼女は“正しい”かもしれないが、こういう人に心のやすらぎが訪れることは決してないだろうと思った。人から聞いた話の断片を繋ぎ合わせ、恐らくは過去の経験からくる性悪説によって彼女は司祭を疑い、その罪を確信して裁いた。裁くということは、これまでの自分の(狭い)知識や経験に照らして、悪だったり不正だったりすることを批判し、非難し、糾弾することだ。ではなぜ裁くのだろうか?―――怖れているから。なぜ怖れるのか?―――自分自身が傷つくのではないかと思うから。こんなことを考えているうちに、私もまた誰彼となく裁いているではないかということに思い至った。特に今思い当たるのは、この前まで勤めていた会社の経営者夫婦に対してのことだ。私もまた怖れの塊だということに気がついた。そして、自分自身を守るために、自分が傷つかないようにするために、自分の生存が脅かされないようにするために、いつも私は他者を裁くのだということに気がついた。私は他者に傷つけられたり利用されたりしないために、先に相手を裁いて相手を遠ざけようとするのだろう。それは愛よりも怖れを選んだ結果である。その背後にあるのは、他人は私を利用して騙そうとするものだという怖れに基づいた間違った固定観念であり、うまい話には必ず裏があるという固定観念だ。この固定観念は、恐らく私の遺伝子の中に組み込まれているもの・・・。正しいことがいつも良いとは限らない。むしろ、その正しさを主張するあまり、相手の行為の中にある本質(愛や怖れ)が見えなくなってしまう。私が一番陥りやすい罠だ。正しいか正しくないかということが問題ではないのだ。そこに愛があるかないか、それが一番大切なことだ。相棒が言ったように、確かにこの映画は私にとってもタイムリーで完璧なメッセージだった。昨夜、私はこれから「怖れの窓」からではなく、「愛の窓」からすべてのものごとを観るようにしようと心に誓った。たとえ少しずつでも良いから、そうして行こう。心のやすらぎを得るために。そしたら今朝はこんな夢を見た。現在使われている通貨が1メガから1ギガに変わったところで、やがて1ドンの時代に変わることがわかっており、今は○○(一番年上の姪ッ子の名前)の時代から○○(2番目の姪ッ子の名前)の時代に世代交替したところである。でも、出来ればメガの時代にも良い思い出を残して、穏やかに交替していきたいと思っている。通貨の単位がなんでメガとかギガとか電子系で、ましてやドンなんだろう?(^^;とは思うものの、自分の中なのか周囲の状況なのかはわからないけど、何かが確実に変わりつつあるのだという気がした。それで、O-リングテストでグラガのトリートメントボトルをあと何本飲むべきか調べたら、1本で良いらしい。この間の3本から1本に減っている。問題が一つ意識化出来たから?そして、その後はニジャラを飲む方が良いらしいので、また用意しなくちゃ。ちなみに、ニジャラというフラワーエッセンスは、グラガと同じくヒマラヤン・エンハンサーの一つで、次のような効果があるとされている。「プログラミングを解くためのワーク全てに大変よいエッセンス。条件付けられた考え方や行動パターンを変えようと意識的に意図したとき、このエッセンスがもはやいらなくなった過去の刷り込みを細胞から消し去ることを助けてくれます。変容をサポートします。」グラガを摂った後に不要なプログラミングの存在に気づき、それを解除するためにこのエッセンスを摂るというパターンも多いそうである。私もまさにこのパターンかも。**********************************************XOOPS構築による戦略的Webマーケティング~スローライフスタイル~