カテゴリ:日々の気づき
しばらく前から読んでいる本の中に(同時並行で何冊か読むこともある)、「太陽の国へ ~22を超えてゆけ・2~」(辻麻里子著 ナチュラルスピリット社)というのがある。 これは前にも書いたことがあると思うが、「22を超えてゆけ」の続編である。 その中に、こんな言葉があって心に響いた。 「マヤ(注:主人公の名前)、あなたが、あなたらしく在(あ)らなければ、誰もあなたのことを探せませんよ。あなたは、レムリアの彼(注:マヤのツインソウル)が、自分のことを憶えていないと言いますが、あなたがご自分の本質に気づき、そのエッセンスを純粋に表現しなければ、彼があなたを思い出せなくても仕方ありませんね。ありのままの自分でなければ、たとえご縁のある人に巡り逢っても、その人は、あなたの前を通り過ぎてしまうことでしょう。彼があなたを憶えていないのではなく、あなたがあなたを憶えていないのです」 そういうことはあるのだろうなと思う。 本当は大切な人、大切なご縁、人生の素晴らしい転機も、自分自身が本来の自分でなければ気づかずに通り過ぎてしまうことが。 私はこれまでどれだけそういう縁を見逃してきてしまったのだろう? それもこれも自分自身の選択には違いないのだけどね。 願わくは、そういう大切な縁やチャンス、そしてそれを気づかせようとしてくれる心の内側の囁きを、漏らすことなくきちんとキャッチできるような自分になりたい。 またこの本の別の個所。 もし、地球が争いのない星になり、銀河の一員として正式に迎えられた暁には、自分はどうするのだろうかとマヤは考えていた。その時はきっと、次なる希望をたぐりよせ、別の地球へと向かうのだろう。この銀河にやって来た時のように・・・。 「・・・・・・では、G(注:マヤの未来の姿。高次の存在)。あなたはこの先、どうするのですか?」 「わたしは、あいにく銀河の配線工事が好きなんでね」 陽気に笑うGの瞳の奥には、孤高の光がゆらめいていた。本当は、Gは帰ることができないのではないかと思ったが、そんなマヤの疑問を察知したように、Gはまっすぐな声でこう答えるのだった。 「われわれと共に来た同志たちが、故郷に帰るその日まで、最後の一人を見届けるまでは、わたしはこの銀河に残ることに決めている」 このGの言葉になぜだか私は胸が熱くなった。 まるで弥陀の本願みたいだと思った。 弥陀の本願とは、法蔵菩薩自身が阿弥陀如来になるための条件として挙げた誓願の数々である。 その中に、「衆生がすべて此岸(しがん=こちら側の岸=現実世界)から彼岸(向こう岸=極楽浄土)に渡り終えるまでは、自分は決して如来にはならない(=悟りを開かない)」という願がある。 つまり、自分はこの世のすべての人を救うのだ、それまでは自分も極楽浄土には行かない、という意味の誓いなのだ。 なぜか私はこの手の自己犠牲(仏様に自己犠牲というのはおかしいが)に弱い。 こういう利他というか、慈悲の心を表している話には、涙腺が思わず緩んでしまう。 それが人間として、一番尊い行為だと感じるからだろうか。 凡人である私にはそんなことできもしないのだけれど、だからこそ、そういう行為や気持ちが尊いと思うのかもしれない。 でも、ボランティアで働く人達や、何の見返りも求めずに誰かを助けている人達、誰に言うわけでもなく町の片隅を掃除する人達は、こうした菩薩行を積んでおられるわけである。 そういう人達にはいつも頭が下がる思いがする。 小説(?)には違いないが、いろいろと考えさせられることの多い本である。 ちなみに、「太陽の国へ」は「22を超えてゆけ」の続編にあたるが、「太陽~」は一応独立した作品になっているので「22~」を読んでいなくても読み進むことができる、と最初に書いてある。 でもできれば「22~」から読んだ方がわかりやすいと思う。 ****************************************************** 印鑑とパワーストーン専門店☆ソウルナビ良品倶楽部 DVDレコーダーを100%使いこなそう! 見逃せない!TV番組Pick Up!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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