カテゴリ:スピリチュアル
今日は用があって梅田に行ってきた。 電車の中から見た桜ノ宮の川沿いは、満開の桜でとっても綺麗だった。 帰りが早ければ途中下車してちょっと見て帰ろうと思っていたんだけど、あいにく少し遅かったのでできなかった。 ところで、昨日は上本町の藤次寺(融通さん)にお参りに行ってきた。 8の付く日には一願成就の護摩焚きがあるらしいから行こうと母に言われて、お供したのだ。 ところが融通さんの寺務所で尋ねると、うちはそういうことはやってない、という。 でも母は、駅で確かにそう書いてあるのを見たと言う。 「太融寺の間違いちゃうのん?歯の治療に行った時に見かけたんやろ、きっと」と私が言うと、「これから行こか」と母が言う。 お寺のハシゴかと内心めんどくさかったが、母のご機嫌を損ねるともっと面倒なことになるので、仕方なく行くことにした。 太融寺というのは大阪の北区にある古いお寺である。 嵯峨天皇の勅願所で、弘法大師が開基らしい。 寺の由来はこんな↓感じ。 「当寺は弘仁12年(821年)にこの地に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により、創建されました。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子河原左大臣源融(みなもとのとおる)公が、この地に八町四面を画して、七堂伽藍を建立され、浪華の名刹として参詣者でにぎわいました。当時を偲ぶ境内地の名称は今に伝えて、太融寺町、堂山町、神山町、扇町公園、野崎町、兎我野町等として残って居ります。 元和元年(1615年)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼しましたが、元禄年間に太堂、南大門など諸堂25棟が復興して、“北野の太融寺”と市民に親しまれ大いに栄えました。 昭和20年(1945年)6月戦災で堂塔伽藍一切が灰燼に帰しましたが、ご本尊千手観世音菩薩は無事難をまぬがれました。戦後再建に着手、本堂、大師堂、不動堂、宝塔、客殿、本坊、庫裡、鐘楼、東・西・南・北門、御供所20余棟が復興しました。」 源融というのは、光源氏のモデルと言われている人物で、「融(とおる)」という能楽にもなっている。 以前、本堂には参ったことがあるけど、行ってみると「一願不動明王」と書いてある。 「そういやこの前を通る時にいつもこの看板見てたけど、お参りしたことなかったな」と思って境内に入る。 境内をうろうろしていると、奥にまだ建物があって、そこから般若心経を唱和しているのが聞こえてきた。 大きなお不動さんが立っていて、その横の小さな建物が不動堂らしい。 薄暗いお堂の中で僧侶が護摩を焚いており、小さなお堂の中には人がひしめくようにして般若心境を唱えながら座っている。 おどろおどろしい感じが、「いかにも密教」という一種独特の雰囲気である。 「ここやここや」と母を呼んで、お堂の前の寺務所の所で護摩木を書いたのは良いが、既に2時からの護摩焚きが始まっているので、4時からのお焚きあげになるという。 いくらなんでも2時間も待てないので、書いた護摩木は寺務所に預け、お堂の隣の水場(一筋滝が流れている)に手を合わせたり、ちょうどお釈迦様のお誕生日の花祭りだったので、お接待の甘茶をいただいたりしてしばらくブラブラしていた。 ああ、今考えると、護摩壇で火を焚いている横に水場があるのよねぇ。 なんか意味があるんだろうな。 境内をうろうろして帰りかけた頃、「エイッ!」という気合いが何度もまた不動堂の方から聞こえてくる。 一体何が始まったのかとまた戻ると、護摩焚きは終わったようで、護摩を焚いていたお坊さんが、般若心経を唱えていた人達の背中を一人ずつ数珠で祓っているというのか、気合いを入れていた。 簡単な加持祈祷をしてもらっているような感じである。 「ほほー、希望者はああしてもらえるのか~」と母と言いながら見物。 そこに居た人達は信者だからなのか、この護摩焚きにご利益があるからなのかよくわからないが、みんなかなり熱心な感じだった。 思いもかけず非日常的なものを見て、ちょっとリフレッシュできて良かった。(っていうのはおかしいやろ!>自分 ^^;) 気がつくと、先に行った融通さんも太融寺も、高野山真言宗のお寺なのである。 図らずも両方のお寺でお大師さんやお不動さんに手を合わせてきたのだ。 ご縁ですねぇ。 久しぶりにまた高野山に行きたくなってきた。 ********************************************** 中小企業のための営業支援ブログ◆販路開拓コツのコツ◆ 生活お役立ち情報専門コミュニティー☆ソウルナビ良品倶楽部 DVDレコーダーを100%使いこなそう! 見逃せない!TV番組Pick Up!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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