ゆんたま Spiritual Life

2009/04/22(水)11:42

高橋是清の生き方 by ゆんたま

日々の気づき(89)

先日、朝日新聞の「この人、その言葉」というコーナーで、高橋是清(Wikipedia)の「それでどんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換してくるものだと、一心になって努力した。」という言葉が取り上げられていた。 軍部の動きに異を唱えたために2.26事件で暗殺された人、というぐらいしか知らなかったが、興味深いことが書いてあったので、少し長いが全文転載させていただく。 高橋是清は戦前の蔵相・総理大臣。不遇の育ちのわりに性格が明るく周囲は首をかしげた。一体、人間は大不幸に遭うと、楽観的に物を考えられなくなるが、高橋はそうでなかった。 高橋はその生まれからして波乱。母は15歳の少女。奉公先の主人に妊娠させられ高橋を生んだ。生後3、4日で仙台藩の足軽高橋家の里子に出され、生母と離された。生母とは2歳時に1度、お宮の境内で対面したきりである。9歳になって母の家を探しあてたが、母はすでに世を去っていた。1867(慶応3)年、13歳でサンフランシスコに留学。しかし人を疑わぬ年頃、英語で「何が書いてあるかさっぱり分らない」書き付けにサインしてしまい、奴隷に売られた。幸い救出されたが、その後も、投資話にのせられて大損。ペルーの鉱山開発では、家屋敷を売る羽目になった。ところが高橋は一貫して楽観論者で前向き。それには、幼時のある事件が原因していると、本人が『高橋是清自伝』に書いている。 高橋は2、3歳のころ、誤って藩主の奥方の前に飛び出した。しかも奥方のきれいな着物をつかみ「おばさん、いいべべだ」といった。周囲は顔面蒼白。しかし奥方はそんな高橋を可愛いと思ったのか大喜び、しかるどころか色々な品を与えて帰した。足軽の子が奥方に召されるなど例がない。足軽長屋の人々から「高橋の子は幸福者(しあわせもの)よ」と言われ続けて育った。「自分は幸福者だという信念が、その時分から胸中ふかく印(いん)せられ」どんな失敗をしてもいつか自分には運が巡ってくると信じて努力する癖がついたという。自分は運がいいと思って生きる大切さを物語っている。(磯田道史 歴史学者・茨城大准教授) 高橋是清の愛称は「だるまさん」とWikipediaにあるが、その愛称通り、写真を見ても「だるまさん」みたいなお顔である。(^^) その風貌と同じように、楽天的で温厚な人だったのかなという気がする。 それにしても、13歳で留学する前に横浜に滞在していた貿易商に学費や渡航費を着服されたあげく、ホームステイ先である貿易商の両親に騙されて奴隷契約書にサインさせられて奴隷として売られ、1年程農奴として働かされていたという。なんとまぁ、あの当時のアメリカで奴隷になりながら、よくも帰って来られたものだ。 そうかと思えば文部省に入ったり、教師になったり、鉱山開発で騙されて失敗したり、銀行に入ったと思えば日銀総裁になったり総理大臣になったりと転職しまくり、まさに波乱万丈。 一言で「運が良い」とは言い切れない人生だけど、その才能や人柄もさることながら、この小文にもあるように、どんな時でも「自分は運がいい」と思って前向きに努力することで、彼は幸運を招き寄せたんだろうと思う。 彼は自ずと「引き寄せの法則」を使っていたんだろうね。 人生なんて何が起きるかわからない。 不遇な現実が、後から振り返れば人生の一大転機、飛躍するために必要な助走期間だったということもよくある話だ。 「禍福はあざなえる縄の如し」という。 どんな時でも腐らず、「自分は運がいい!」と思って楽観的に生きることが大切なんだろうね。 ********************************************** XOOPSマーケティングランド~Webコンサルティング「新規開拓支援」~

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