|
カテゴリ:ライフスタイル
人生の目的はパースナリティーの向上にある。
稲盛和夫氏はこのように表現されておられる。 同感である。 さて、私たちは生きる上で、食べ物を得ることを日常の事としている。 生計を立てるために日夜働き、汗を出し、知恵をだしている。 大学へ行く目的も、本来よりよい生活を得るための手段である。 両親たちは、子どもの幸せを願うために高い教育費に目を瞑り、働いてきた。 全て「食べるため」であったのである。 金持ちになるのも、東大へ入学するのもこの目的のためだとも言えるのであろう。 「パンのみに生きるにあらず」とキリストは言われる。 あたかも人生は食べる目的の他に、違う意味があるかのように示唆する言葉である。 それが冒頭にある人間性の向上なのかもしれない。 私が中学の頃国語の先生から、「芥川龍之介全集」を読んで御覧なさい。と教えられた。 図書室で、時々遊びに言った時に告げられたのである。 それから難解なこの文学に挑戦し始めた。 お蔭で少しは国語力もついた気がした。 芥川はその後「人生は獏としている」の遺言を残し、この世から消えた。 彼にとっても人生の意味は不可解であったのだろう。 高校生の頃、倫理の教師が、カントのエピソードを授業中に語ってくれた。 東大卒のこの先生を、私は尊敬していた。 「カント大先生は、いつも決まった時間に散歩する習慣を持っていた。村人はそれを知っていたので、 夕暮れ時になっても、珍しく先生が散歩に現れないので、どうしたのだろうか?・・・」このような話であった。 カントは「エミール」を読むのに夢中になり、いつもの散歩の時間を忘れたのであった。 この話を聞き、早速図書室で「エミール」を読んでみた。 いい本であった。 随分たってから、カントが国連の原型の考案者と、人から聞いたことがあった。 やはり偉大な哲学者であったのだ。 それから、文学に夢中になった時期があった。 10年も読書をする内に「一体自分は小説に何を望んでいるのだろうか?」と根源的な疑問を抱いたのである。 そして、少しずつではあるが、気がついていったことがある。 自分は小説を通じて「救いのある人生」を求めていることが分かってきたのであった。 キリストは愛を教え、釈迦は、愛は恨みのもとと言い、余り評価をしてはいない。 二人の聖者の意見が分かれている点である。 唯二人が共通する点があるとするなら、「いきとしいけるものに救いを」という理念である。 宗教上の原点かも知れない。 これも人生の目的であろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ライフスタイル] カテゴリの最新記事
|
|