2017/06/19(月)01:57
いつか何処かで・・・。24
いつか何処かで・・・。24 倉敷は今日はあまり暑くない穏やかな日だった。6月の風は5月の風と違って緑ではない、緑が枯れていく褐色のようだ。 人間は自然によっていろいろと様々な恩恵を抱いている。例えば雨の音には心の安らぎを、風にざわめきには生きている証を、雪には落ち着いた精神を、その変化に人間は順応し過ごしてきた。そこから生まれ築かれたものは大きい、季節と日々の気温の変化が強靭な肉体を作ってと言える。自然と共生というが、ともに生きてきた歴史はない。あるとしたら一体という事だ。自然の共に自然の中に溶け込んだ歴史は幾らでもある。自然と合体して作ったのが古代の歴史である。自然を人間の手で毀している、その生成に手を貸す、これは人間の傲慢というものだ。人間が都合のいいように自然に手を入れて作ったものがそれを共生というだろうか、それは利用という事にしか過ぎない。 自然の営み、その再生にまで人間がかかわることはどうだろう。植林は自然破壊、そのサイクルを無視した行為だ。森林をほっておいたから森林は死滅しているというが、さてどうだろう、自然には自己のその再生力がある。それは歴史が物語っている。風が吹き付け弱い木々を押し倒し腐って土にかえりそこには新しい芽が育つ、、雷が山火事起こさせ焼き払い、新芽の森林を再生する。日の循環が営々と続いた自然の再生であった。森林に手を入れなかったから洪水になった、それは人間の考えである。自然はそれをめぐって続いてきている。山に降る雨がやま旗の肥沃な土を海に流すから魚が繁殖して海の幸が豊魚となるという仕組みなのだ。昔から漁師たちが山を大切にしたのはその摂理を知っていたのだ。 自然に人間は手を貸すことは無い、自然の持つ再生力を信じて見守る勇気が必要だ。灌木などしなくても自然の競争力と生命力によって淘汰されるものが出る。日当たりが悪いところにしか育たない木々もある。朽ちた木々から新芽が必ず生えて成木する。 木々はCO2を吸収し成長して果実を作る。吐き出される酸素は動物がそれを戴く、また、余分な酸素は地球の上空にオゾンの幕を作り太陽の熱を和らげている。これが自然の循環である。 私達が食べている米は半以上がCO2であることを、そして人間の口に入っている植物もCO2であることを知らなくてはならない。今、この地球上に0.04パーセントのCO2しかない。 かつて恐竜が2億年も続いていた時には20%もあって植物が栄えに栄えた時期であったから恐竜の時代は長きにわたったのだ。恐竜だけではなくあらゆる動植物にとっては楽園でもあった。 食べ物が豊富であったから恐竜は巨大化し、心臓の血圧が頭まで到達できなくなって絶滅することになる。隕石がという説もあるが、確かに恐竜時代の末期にそれは起こって死滅した後の事である。 人間の誕生はCO2と海水、雷が作ったと言われている、両性の小さな生き物。体を分けて繁殖していた。これはアダムとイブの物語によく表れている。アダムが胸の骨からイブを作る、まさに初期の人間は体を分けて増えていったのだ。 全てが自然の生業であったと言える。 私はメソポタミアのシュメール文明に遊んで、その文明が忽然と地球上から消えたのは、チグリスとユーフラテスの川の流れによって豊だった大地を破壊し喰いつくしたこと知った。 人間が作った文明はその文明によって駆逐されていた・・・。 この地球はCO2によって作られている、事を知り地球温暖化を阻止するためにCO2を削除しなくてはならないという出鱈目を信じないことだ。削減すれば確実にこの地球上の動植物はすべて絶滅をする…。 京都議定書、パリの温暖化を蹴とばしたトランプ氏は正しいが、果たしてこのことがわかっていたのかどうかは不明だ・・・。