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カテゴリ:日々踊るココロをあなたに♪
幽水ピアです。
久々に記事更新。 私自身に対する内的確認として。 * 「信念やビジョンを持つことは素晴らしい(そして望ましい)。 が、それは他者にも自分と同じものを持つことを、 要求または期待すべきものではない。」 もう一つ、 「究極的に見れば、それぞれの人の歩む道に貴賎はない。」 そして、 「究極、人は他人をジャッジ(裁く、あるいはランク付け)することはできない。 …できるとすればあくまでも"仮"に限定した枠組の中においてだけ、である。」 根源的な視点から見たとき、上のようなことが言えると思います。 人がそれぞれ自分の信念やビジョン、規範や尺度を持つことは、 充実して生きるための力になりますし、望ましいことです。 けれどそれは自分を前に進ませるためのものであって、 その信念や尺度は本来、他者をジャッジするためのものではありません。 (でも人というのはなぜか他者をジャッジしがちです。) それぞれが自己の尺度で他者に対してジャッジしたり要求したりするのでなく、 「共鳴」や「共振」が人と人との間に生まれ、 その結果、共に何かを成すことができるのであれば、 それは素晴らしいことだと思いますし、そうありたいと思います。 互いの感覚・精神と魂に照らして 「共鳴」するところのある信念やビジョンであれば、 何かを共有して一緒に歩んでいくこともできるでしょう。 そういう相手、そういう人々と、 手を携えられる部分で手を携えて行けばよいのだと思います。 知識・技能・経験の多寡や様々な到達段階の差などに関わらず、 究極の視点から見れば、人と人は常に同等です。 自分の信念や理念やビジョンに他者が「従う」ことを望むとすれば、 それは本質的に違うのですよね。 人は誰も、 自分自身の血や肉や感覚・精神・魂を通過して得心したものにしか、 従えるものではないし、また本来、従ってはいけないのです。 (人は本来、そのようにして開花する存在としてこの世に送られているのだから。) 自分の持つ信念やビジョンの実現に 他の人々の力を貸り動員したいと望むなら、 人の心に共鳴や共振を起こすよう働きかけてゆくしかありません。 働きかけていった結果、共鳴し期待通りに動いてくれるかどうかは基本的に、 全くそれぞれの人の自由です。 自分のビジョンに共鳴しない、 あるいは自分の望むようなレベルの動き方をしてくれない、 そんな人が居たとしても、 自分の尺度で批判しないよう気を付けなくてはと思います。 (人は自分の思い通りにことが進まないと人を批判しがちですから。) それは自分の働きかけ方の中で何かが不十分だったか、 あるいは、 投げかけたビジョンが、 その時の相手にとって大事なテーマとは異なっていたために響き合わなかったか、 という二つのどちらか、ということですものね。 * お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年04月18日 02時39分39秒
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