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やまさん-1号

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2006年07月23日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
「おとこの遊び専科」はアンチ・ドリブの合言葉のもと、
号を追うごとに部数を伸ばしていった。そして刊行間隔も、
不定期刊から季刊、季刊から隔月刊とピッチをあげていき、
半年後にはついに隔月刊から月刊となった。

 そうなるとおもしろいもので、つぎつぎとヒット企画が
生まれてくる。たとえば一色(モノクロ印刷のこと)の
「ギャンブラー入門講座」は、ブツ撮り名人の清水カメラマン
に依頼し、見開きにまたがる大迫力写真をメインにもってきた。
第1回のテーマは「銭飛ばし」。
4×5カメラによる超スロー撮影でコインの軌跡がみごとに
描写され、金久保さんの名文とあいまって、たちまち
アンケートで第3位に躍り出た。
1位も2位もカラーのヌードグラビアだから、
これはすごいことだった。

 このあたりから、ぼくは凸版印刷との交渉係となる。
「鳥肌が立つような写真を入稿するから、これ以上できない
という製版を見せてくれ」。ぼくは凸版の営業にそう大見得を
切った。事実、清水さん入魂の六切り紙焼きは鳥肌ものの
出来映えで、営業担当の早部さんも意気に感じたらしく、
雑誌の一色ページとしては異例の「色校正」が出た。

 副編集長といっても、編集長と二人だけの社員で、
あとは全部外注スタッフだから、やることはいくらでもある。
取材から入稿までは副編集長としてスタッフを掌握し、
原稿がアップするとデスクとして原稿にばしばし朱字を入れる。
場合によっては原稿を担当者に突っ返し、「書き直し!」と
怒鳴ることもある。編集プロダクションのタイトロープには、
どこで探したのかと頭が痛くなるような新人が続々と入って
きたが、そいつらに原稿書きの「いろは」を教えるのも
ぼくの役目だった。

 そして原稿が印刷所に渡されると、そこから先は
制作進行役をやらなければならない。編集長や担当スタッフに
ゲラのスケジュールを伝え、外部の校正マンの予約を取る。
当時は写植で組版をしていたので、原稿を入稿すると
コピー紙の「ネーム校正」が最初に出る。
これは要するに版下のコピーで、文字が間違っていないかを
チェックし、レイアウトを確認する工程だ。
ここで直しておかないと、製版フィルムを作ってからの
直しになって費用がかさむ。

 ネーム校正が戻されると、つぎに出るのは色校と青焼きだ。
カラーページは色校正紙で、一色ページは青焼きで、
写真や図版類を中心に校正する。
ネーム校正での直しが正確かどうかも、ここでチェックする。
ただしそれはあくまでも原則で、現実の編集部では入稿が
間に合わず、ネーム校正を飛ばしていきなり色校を出させたり、
色校で追加原稿を入稿するような滅茶苦茶な進行が
まかり通っていた。

 ぼくはいい加減な進行を全部やめさせ、原則通りの進行に
戻した。継子扱いされている編集部なのだから、逆に
品行方正を売り物にしてやろうと考えたのだ。
幸い、半素人みたいな編プロの若手たちは、「編集者が
一番偉い」などという変なプライドを持ち合わせていない。
やさしく教え、ダメなら怒鳴れば言うことを聞いてくれる。
「ちゃんとやれば、早く帰れる」を合言葉に、ぼくらは
印刷所の理想通りの進行にこだわった。

 あるとき、最終校正の戻しが便の時間に間に合わなく
なったので、ぼくは早部さんに交渉して、朝一番で持ち込む
ことを条件に時間を延ばしてもらった。
徹夜でまとめた校正紙を持って志村坂上の工場に行くと、
早部さんが待ちかまえている。
彼はぼくの持っている袋をひと目見るなり怒鳴り始めた。
「約束が違うじゃないですか! 全部校了すると言った
でしょう」
 ぼくは少しも騒がず、言い放った。
「怒鳴るのは、確認してからにしたらどう?」
 彼は納得していない様子で袋を開け、中の校正紙を
並べ始めた。
「あれ? 全部ある。どうして全ページの朱字が、ひとつの
袋に収まるんだろう」

 彼が不思議がったのも無理はない。前述したように、
「ドリブ」や、ついこの前までのわが編集部では、校了紙に
追加や差し替えの原稿用紙、ポジ袋、紙焼き写真が貼り付け
られているのが当然だったから、一冊分の校了紙となると、
持つのも大儀なくらいの大荷物になっていたのだ。
それが、ぼくらの改革によって何も付いていない校正紙に
変わった。だから一冊分とは思えないほどの小さな袋に
収まったのだ。

 この改革は、凸版印刷に高く評価され、ぼくらの進行
スケジュールは一週間近く後ろにずらされた。おまけに、
請求書をチェックしている学研の業務局から、
「信じられないので見学させてくれ」という申し入れまで
やってきた。なせばなる。やればできるのである。

 早部さんからは内緒で「学研グループで一番理想に近い
編集部」という言葉をもらっていたが、ぼくはそれをずっと
秘密にしていた。継子があまり日の当たる場所に出ると、
ろくなことがない。なぜかそんな気がしたからだ。





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最終更新日  2006年07月24日 00時27分57秒
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 Re:雑誌を作っていたころ(13)(07/23)   O西 さん
なつかしい名前、駒沢にあったっけ。あの編プロは確かにイカレてる。社員はしぬし、原田とかゆう社長と相馬とかゆう社員、狂った人間性の持ち主だった。俺は今でもあいつらを許さない。 (2012年03月01日 01時50分45秒)

 Re[1]:雑誌を作っていたころ(13)(07/23)   t田y蔵 さん
O西さん
>なつかしい名前、駒沢にあったっけ。あの編プロは確かにイカレてる。社員はしぬし、原田とかゆう社長と相馬とかゆう社員、狂った人間性の持ち主だった。俺は今でもあいつらを許さない。
-----
なつかしいねえ。原田(本名:高木哲)とソウマホウサク。社員1人死なせて笑ってる基地外か。あいつら今なにしてるんやら。 (2017年03月05日 19時18分14秒)

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 t田y蔵@ Re[1]:雑誌を作っていたころ(13)(07/23) O西さん >なつかしい名前、駒沢にあった…
 山崎修@ Re[1]:雑誌を作っていたころ(1)(06/24) 中嶋 恭久さん 夏までにアマゾンのPOD書…
 山崎修@ Re[1]:雑誌を作っていたころ(1)(06/24) 中嶋 恭久さん >この文章は、タイムスリ…
 中嶋 恭久@ Re:雑誌を作っていたころ(1)(06/24) この文章は、タイムスリップさせる力があ…
 やまさん-1号@ Re[1]:雑誌を作っていたころ(53)(12/27) 園田さん 超亀レスになってしまい、すみ…

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