@寺子屋食神

2020/07/24(金)00:00

越えなばと思いし峯に来てみればなおゆくさきは山路なりけり

越えなばと思いし峯に来てみればなおゆくさきは山路なりけり です。「人間万事塞翁が馬」です。よいことがあったかと思うと、その蔭(かげ)にはもう不幸が忍び寄っているのです。落胆の沼に陥り、絶望の城に捕虜になったかと思うと、いつの間にやら、また享楽の都を通る旅人になっているのです。いたずらに悲観することも、無駄なことですが、楽観することも慎まねばなりません、油断と無理とはいつの時代でも禁物です。なんでもない、つまらぬことに悲観して、もう、身のおきどころがないなどと、世をはかなみ、命を捨てることは、ほんとうにもったいない話です。行き詰まって、絶体絶命の時こそ「ちょっと待て!」です。「立ち止まって視よ(ウエイト アンド シー)」です。すべからく目を翻してみることです。思いかえすこと、見直すことです。心を転ずることです。「転心の一句」こそ、行詰まりの打開策です。「裸にて生まれてきたになに不足」の一句によって、安田宝丹翁は、更生したといわれています。事業に失敗したあげ句の果て、もう死のうとまで決心した彼は、この一句によって復活しました。そしてとうとう後の宝丹翁とまでなったと聞いています。「転」の一字こそ、まさしく更生の鍵です。禍を転じて福となす(転禍為福(てんかいふく))といわれているように、私どもはこのたびの敗戦を契機として、せひともこの「転」の一字を十分に噛みしめ、味わい、再建日本のための貴い資糧とせねばならぬと存じます。ところで人生を旅路と考え、弥次郎兵衛、喜多八の膝栗毛を思い、東海道五十三次の昔の旅を偲ぶとき、私どもは、ここにあの善財童子の求道譚(くどうものがたり)を思い起こすのです。善財童子は文殊菩薩の指南によって、南方はるかに五士三の善智識を尋ね、ついに法界に証入して、まさしく悟れる仏陀(ほとけ)になったのですが、この物語は、かの「華厳経」(第一講をみよ)のほとんど大半を占めている有名な話です。人生の旅路を、菩薩の修業に託して説いてくれた古紀の聖者の心持が、尊くありがたく感ぜられるのです。おそらく、東海道の宿場を五十三の数に分けたことは、この善財童子の求道諏に、ヒントを得たものと存じます。 「林を出でて還ってまた林中に入る。すなわち是れ沙羅仏廟の東、獅子吼ゆる時、芳草緑、象王廻(めぐ)る処、落花紅なりし」 と仏国禅師は、善財の求道の旅を讃嘆しておりますが、いうまでもなく、獅子とは、文殊菩薩のこと、象王とは普賢菩薩のことです。文殊と普賢の二人によって、まさしく青年善財は、ついに悟りの世界に到達したのです。私どもはバンヤンの「天路歴程」や、 ダンテの「神曲」に比して、優るとも決して劣らぬ感銘を、この求道物語からうけるのです。私どもは善財童子のように、人生の旅路を、一歩一歩真面目に、真剣に、後悔のないように歩いてゆきたいものであります。さて前置きがたいへん長くなりましたが、これからお話しするところは、 「故に知る。般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能く一切の苦を除く、真実にして虚しからず」 という一節であります。高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)

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