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先に引用したように、ユースタス・マリンズが『カナンの呪い』の中に纏めている流れによって『シオンの議定書』が世に現われるまでの経緯の要点はほぼ尽くされているが、マリンズが挙げた先駆的動きの中の重要なものについて解説を加えておきたい。
〇一八六〇年:トルンのラビ・カリシャー宅におけるユダヤ教改革派秘密会合 〇一八六一年:ラビ・ヒルシュ・カリシャー『シオンを求めて』(Drishal Zion)刊行 〇一八六二年:モーゼス・ヘス『ローマとエルサレム』(Rom und Jerusalem)刊行 〇一八六四年:モーリス・ジョリ『地獄におけるマキアヴェッリとモンテスキューの対話』(Dialogue aux Enters entre Machiavelli Montesquieu)刊行 議定書偽書説の論者からは、モーリス・ジョリ(一八二九~七八)の『地獄対話』が議定書に剰窃され、また次項に挙げるゲーゼの本の中の一章『プラハのユダヤ人墓地にて』に盗用されて議定書の原型となったとされている。ノーマン・コーン「ユダヤ人世界征服陰謀の神話』(平成三年、ダイナミックセラーズ刊)は「…『プロトコル』の一六〇余りの節のうち、五分の二がジョリからの盗用である。九つの章は剰窃がテキストの半分から、多いものでは四分の三に及ぶ。もっとひどいものになると(『第七プロトコル』)、一章まるごと剰窃である。さらに、一〇余りの例外を除いて、盗用箇所の順番も、まるで翻案者が機械的に写しかえたかのように、ジョリの原本と同一である。章の配列もほぼ同じ。『プロトコル』の二四章が「対話」の二五章にほぼ相当する(同書八〇頁)として、「これほど明々白々な剰窃、偽造はあり得ないといえる程典型的な事例である」と断じている。 だが、マリンズの言うように、モーリス・ジョリ自身がその種本をE・ラハラーヌなるアドルフ・クレミュー側近の人物から入手した、一八六〇年トルンにおけるユダヤ教改革流秘密会合の議事録に仰いだとすれば、あるいは種本があってジョリ自身がそこから剰窃してきたのだとすると、ジョリもまた盗作者となって話は全然違ってくる。 そして実際に、ジョリの『地獄対話』の種本は存在したのだ。すなわちその種本とは、一四年前の一八五〇年に刊行された『マキャヴェッリ、モンテスキュー、ルソー」というタイトルまでも似通っている本である。著者はヤーコプ・ヴェネデイ、発行人はベルリンのフランツ・ドゥニッカーだった。 ユダヤ人ヤーコプ・ヴェネデイ(一八〇五~七一)はケルンに生まれハイデルベルク大学を卒業。若くして革命運動に身を投じ、国外追放処分となる。一八三五年にパリに居を据え、破壊活動を煽動する『追放者』という新聞を編集したが、官憲によってバリ追放処分となりル・アーヴルに逃れるも、アドルフ・クレミューの友人アラゴやミニェらの抗議によってパリにもどることができた。ヴェネデイの書いた『ローマ教会とキリスト教とゲルマン主義』という著作がフランス学士院で高く評価されたことも追い風となったのだろう。だが、本業は革命家であって、カール・マルクスの朋友でもあった。 ヤコブ・ベネディ 一八四三年から翌年にかけて当時ヨーロッパの大陸諸国における革命運動の司令塔となっていたロンドンに滞在した後、ブリュッセルに移ってマルクスとともに秘密組織「労働者共産主義同盟」(後に「民主主義国際協会」と改名)を立ち上げ、一八四八年二月の革命後にマルクスとともにドイツにもどり、「革命五〇人委員会」の幹部に就任してオーベルラント地区代表委員となった。ヴェネデイがマキアヴェッリとルソーに仮託して独裁主義と大衆抑圧を主張する『マキャヴェッリ、モンテスキュー、ルソー』を刊行したのはこの時期である。ヴェネデイはフリーメーソンの活動家であって、カルボナリ党の党員でもあった。ミスライム・ロッジのメンバーでスコットランド儀礼最高マスターでもあったアドルフ・アイザック・クレミュー(ユダヤ名イサク・モーセ、一七九八~一八八〇)とヴェネデイが親しかったのも当然だろう。 一八六〇年のトルンにおけるユダヤ教改革派秘密会議、そして次に述べるように一八六四年のモーリス・ジョリによる『地獄対話』刊行、ミスライム・ロッジからのジョセフ・ショルスト・シャピロによる極秘文書の持ち出しなどのユースタス・マリンズが指摘しているほかに、ジョリが種本とした『マキャヴェッリ、モンテスキュー、ルソー』の著者であるヴェネデイを支援するなど、『議定書』が生まれる前の動きの多くにクレミューは関係していたのである。そのクレミューは英国首相となったベンジャミン・ディズレーリーと同じく、ロスチャイル ド商会子飼いの政治家であった。クレミューはルイ・ナポレオンの権力掌握に大いに協力したが、首相となってフランス政治を牛耳るという夢は実現せず、財務大臣の椅子も他のユダヤ人に回され、辛うじて司法大臣に任じられただけだったためにナポレオンと不仲になり、一八五一年一二月二日のクーデタに際して逮捕されヴァンセンヌ監獄に収監された。出獄後はナポレオン三世の宿敵を以て自ら任じ、カール・マルクスやジュゼッペ・マッツィーニ、ルイ・プラン、ルドリュー・ロラン、ピエール・ルルーなどの革命家や社会主義者などと親密な関係となった。そうした交際範囲の中にヤーコプ・ヴェネデイと若きモーリス・ジョリもいたのである。ジョリはクレミューのナポレオン三世に対する敵意を代弁したとも いえよう。 ジョリが『地獄対話』の執筆の意図を自伝『彼の道程と彼の計画』(一八七〇年)で、「モンテスキューが健全な政治的立場を代表し、マキャヴェリがナポレオン三世となってその唾棄すべき政治的立場を揚言するのである」(ノーマン・コーン、七八頁より)と述べているように、『地獄対話』はナポレオン三世による第二帝政(一八五ニ~七〇)を批判する風刺小説であった。 『地獄対話』は一八六四年に、最初はスイスのジュネーヴで後にベルギーのプリュッセルで印刷されてフランスに持ちこまれたが、国境を越えた途端に警察の押収するところとなった。この反政府文書の執筆者も直ちに突き止められ、ジョリが逮捕された。『地獄対話』は発禁本となった。一八六五年四月一五日、ジョリはサント・ペランジ監獄に禁固一五ヶ月という判決を受けて収監された。 刑期を終えて出所したジョリを待っていたのは、クレミューを始めとするパリの有カユダヤ人たちから寄せられた「よくやった!」という歓迎の辞であった。ジュール・ファーヴル、デマレ、ルプロン、アラゴン、ベリエル、そしてアドルフ・クレミューらの支援によって『裁判所』という誌名の法律雑誌を創刊することができた。一八七八年七月一四日、それは奇しくも、かつてフランス革命でバスチーユ監獄が襲撃された革命記念日(パリ祭)の当日であったのだが、パリのヴォルテール河岸にあるアパートの一室でジョリは自殺しているのを発見された。 [定本]『シオンの議定書』四王天延孝原訳 天童竺丸補訳・解説 成甲書房 昭和十六年(一九四一年)刊「猶太思想及運動」附録第三「シオンの議定書」を底本とした。 http://michi01.com/index.html お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.02.12 00:00:18
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