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著者の前著(『「リサイクル」してはいけない』)にリサイクルをするほど資源を使うことを示しました。それを「リサイクルの増幅矛盾」といい、そしてその増幅係数はリサイクルの物質の循環を「量」として捉えたものです。
もう一つはリサイクルを物質の「質」に関して考えることを提案します。その例として「紙のリサイクル」を取り上げます。 紙は木から作られます。木は太陽エネルギーで育ちます。木は緑の風景をつくり、鳥や動物を育て、二酸化炭素や空気中の毒物を浄化する効果があります。人問は昔から森林を大切にしてそこからの恵みを受けてきました。緑が多いことはとても良いことですし、太陽エネルギーは毎日変わらずに地上に降り注ぎますので、まさに森林は太陽が人間に与えてくれる恵みであり、何十億年も続く「持続性資源」なのです。 その恩恵を受けて木々は緑を濃くし、海洋ではプランクトンが繁殖します。海の水は太陽の光で蒸発して雲となり、地上に雨や湿気をもたらします。もし太陽の光が海を暖めなければ、地球の陸地は全部、砂漠になるでしょう。 このように太陽エネルギーは私たち人間、そして生物にとってかけがえのないものであり、毎日毎日、確実に私たちに恵みを与えてくれるという点で、私たちの日々の生活にたとえれば「月給」のようなものなのです。そして太陽のエネルギーによってつくられる森林、海洋のプランクトン、プランクトンを食べて増えるイワシ、海洋からの蒸発した水蒸気が山に雨となって地上に降りそそぎ、それで発電した電力、太陽エネルギーの偏りでできた風を利用した風力発電など、みんな月給から直接的に形を変えた資源であり、これを「月給組」の資源といいます。 これに対して石油は数億年前、数億年かけて地球に降り注いだ太陽の光を(結果的に)人間のために貯金しておいたものなのです。石炭も数億年前の植物の死骸が地下に横たわっているもので、植物をはぐくみ石炭のもととなったセルロースを合成したエネルギーは太陽の光です。さらに鉄鉱石も生物起源のものは太陽のエネルギーが直接的に集めたものですし、地殻の運動も自然のエネルギーが少しずつ行ってきたものです。天然ガスは資源的な意味では多少議論がありますが、現在のところは石油と同等と考えてもよいでしょう。 鉄鉱石は、まだ地表に酸素が十分になかったときに海の生物が鉄分を取り込み、それが堆積したものが多いといわれています。また銅などのように地殻の作用によってあるところにまとまって存在するものも、長い地球の歴史の中でできたものには違いありません。人間が活動するような短期間でできたものではないのです。 その意味で石油や石炭、天然ガス、鉄鉱石、銅などの資源は、自然が人類に与えてくれた遺産のようなものであり、これを「遺産組」の資源といいます。 紙は木、すなわち太陽エネルギーから作られますが、紙をリサイクルするときには太陽エネルギーは使いません。リサイクルには主に石油や鉄板(鉄鉱石)を使います。したがって、「紙のリサイクル」という行為を資源的にみれば「石油という遺産組の資源を使って木という月給組の資源を倹約する行為」ということができます。これを「リサイクルの持続性矛盾」といいます。 紙のリサイクルが環境に良いと思って長い間やっている人がおられると思います。その人にとってこの話は突然で少しわかりにくいと思いますので、説明を加えます。 紙は日々照る太陽エネルギーを利用してできるものです。それは太陽がある限り続くもの、そして自然との調和のもとで行われる人問の活動によってできるのです。紙の消費と森林の破壊については次に示しますが、「紙は太陽エネルギーの利用として理想的なものの一つ」であるということをまず頭に入れます。 それに対して、「紙のリサイクル」心は紙をリサイクルに出せば完結するわけではありません。石油からとったガソリンや軽油を使って運搬します。トラックは鉄鉱石とタイヤの原料の石油を使います。紙のリサイクル工場ではフォークリフトで運搬し、人手で選別し、電力でベルトコンベアーを動かし、さらに紙に印刷されているインキを除くのに金属の触媒なども使いながら「脱墨」という反応を利用します。 紙のリサイクルをするためのこれらの行為は、石油などの「遺産」を使うのです。 私たちの生活のように、月給は月々もらう額だけで生活をすれば安定した生活を送ることができますが、限りある遺産を使えば生活は不安定になります。よほど変わった人でなければ月給があるのに、それを使わずに捨てて遺産を銀行から下ろして使う人はいないでしょう。 紙のリサイクルは太陽の光は貯蓄できないという点で、せっかくの月給を使わずに捨てて、石油という遺産を使う行為なのです。 それも遺産が膨大にあって当面心配ないのなら多少遺産を使ってもよいかもしれません。しかし、資源の枯渇は迫っていて、世界石油連盟の公式発表では石油の資源寿命はあと三八年です。もちろん新しい油田が発見されますから、三八年でなくなるわけではありませんが、石油が「限りある遺産」であることは間違いないでしょう。 毎月入る月給を使わずに遺産を使う? 奇妙です。 紙のリサイクルほど明確ではないのですが、リサイクルの中にはこの「持続性矛盾」を含んでいるものが多数見られます。たとえばリサイクルの優等生である鉄のリサイクルでも、鉄の寿命はあと一〇〇年はあるといわれています。それに対して鉄のリサイクルに使用する石油はあと四〇年(■ブログ筆者注:つい最近の武田邦彦先生は、ご自身の計算結果ですが、石油の推定埋蔵量は、一〇〇〇年ほどあると、説明されています。■)ですので、石油を使って鉄をリサイクルするというのは資源的に合理的なシステムでしょうか。ましてアルミニウムのようにあと二〇〇年以上は十分にあるという資源を残りわずかな石油を使って回収するとなると持続性矛盾が生じます。 私たちは「紙を使うと熱帯雨林が消滅する」「紙を使うと森林が破壊される」と信じてきました。信じるためには本当は自分で調べて納得したものでなければいけないのですが、こればかりはうっかりと信じていました。テレビでは森林が破壊されている様子が映し出されますし、紙のリサイクル運動が盛んで、紙を使い捨てでもしたら怒られる生活をしていたからです。 「私の会社は紙をリサイクルしています。ほら、名刺をご覧ください。この名刺もリサイクル紙を使っていますし、封筒もリサイクル紙です。私の会社はこのように環境に配慮した会社です」 名刺に「この名刺はリサイクル紙で作られています」と書いたものを使わないと肩身が狭いという風潮すらあります。 今からよく考えますと 、どうも胡散臭い話でした。「本当に神様を信じているなら人前でお祈りをしなくてよい」という話と似ていますが、本当によいものはこれほどまでに卑屈に宣伝しなくても浸透すると思われるからです。わざわざ名刺のような小さなものまでリサイクル紙で作り、それをこれ見よがしに使うような手口はまともではないことにもっと早く気がつけばよかったのです。 数年前、紙と森林破壊の関係を本格的に調査しました。そうすると、「紙として使っているのは先進国の森林で、それはここ一五年間で三%ほど増加している。熱帯雨林を含む開発途上国の森林は紙の原料としては使っていない。その森林は一五年間で約六%ほど減 少している」 ということだったのです。著者にとっても多少の戸惑いがありました。 紙を使うと森林が増える? 紙に使っていない森林が減っている? これまでそれほど真剣に考えたわけではありませんが、それでもすぐには信じられないことです。この森林破壊と紙のリサイクルの関係は著者の『「リサイクル」してはいけない』に詳しく書きましたので、それを参照して下さい。 そして、紙のリサイクルが単に環境を守るということから離れて社会的な運動になったために、いろいろなことが起こりました。著者はかなり前から紙のリサイクルは「月給を使わずに遺産を使うから、子孫に申し訳ない」と考えて、紙はリサイクルに出しませんでした。すると「環境を考えていないのか」と錯覚されたものです。真実は、紙をリサイクルすると環境を汚し、ゴミを増やし、その上に子孫に残すべき貴重な遺産を使ってしまうのです。 この紙のリサイクルが森林破壊と関係ないという問題は環境ばかりでなく、教育面でも影を落としています。紙のリサイクルは「ものを大切にしよう」ということを教える象徴的なものとして日本の小学校などで盛んに教育されてきました。そのときに単に「ものを大切にしよう」という理由で教育が行われているのならよいのですが、多くの場合「森林が破壊されるから紙ほリサイクルしよう」と教えられるのです。 子供は純情です。先生のお教えになることをそのまま信じて紙のリサイクルに一所懸命になります。それが結果的にせよ「ウソ」だったとしたら、子供はその後の環境の取り組みに真剣になることができるでしょうか? 尊敬していた先生に対する尊敬の念を失うことはないでしょうか? そして何よりも怖いことは、このようなことのためにその子供の心が曲がることです。 教育者は教えることを慎重に吟味しなければなりません。少しでも自分が納得できない場合には「このように考えられているが、まだ私は十分に確信がない」と教えるのが適当です。そしてこの世の中はすべてのことがわかっている訳ではないことも同時に教えます。小学校や中学校でそのような教え方をすること自体が難しいと思いますが、環境は発展途上の学問であり、その教育は慎重であるべきでしょう。 特に環境の教育は、各学校でも極めて慎重に、いろいろな人の考えを聞いて長期的に取り組むことが望まれます。単に「ものを大切に」とか、「物づくりは良いことだ」というような短絡した結論を子供たちに教えるのはとても危ないのです。 最近では「ものを大切にしてできるだけ少なく使おう」と呼びかけるのと同時に、「ものづくりが大切なので、ものを作ろう」という教育も進んできました。むしろ、これからの社会は二〇世紀の世界のように「ものづくり」に関心を持たず、ものから離れて「心の充足」に人生の答えを求めなければならない世界が訪れようとしているともいえるのです。 大人は「本当は紙のリサイクルは環境に良くないが、そういっておこう」とか、「本当は失業が怖いのだけれどもそれはいいにくいので、環境といっておこう」というような矛盾したことをある程度咀噌しても、子供は正直ですから「ものを作らない方がよい」といいつつ、「ものづくりは大切」などという両価性(価値が正反対のことを同時に言う精神分裂症の一症状)は理解できないと思います。 少し脱線しますが、環境という点ではすでに私たち大人は子供に対してかなり酷いことをしているように思います。 すでに都会では子供が自由に遊べる野原はほどんどありません。野原どころか昔は三角ベースや縄跳びを楽しんだ道路も、いつの間にか自動車に占有されました。「歩道」という言い方がありますが、本来、道路は「歩道」であって、車の通るところではなかったのです。それを舗装し、車を優先したのは子供ではなく、大人です。 かくして、子供は家の中に追いやられました。 都会でないところはまだ余裕があり、子供の遊ぶ空間があります。それで 全国的に町という町には子供の姿が少なくなりました。子供たちは大人が作った社会システムの影響を受けて塾やテレビゲームに専念しています。それらは子供が選んだことでしょうか? むしろ、私たち大人がそのような都会を作り、子供に遊ばせない仕組みを作ってきました。 そんな中で「紙のリサイクル」など、ほんの部分的なことだけに自然と親しむことを子供に要求し、それができないからといって「ダメじゃないの!」と叱ることができるのでしょうか?「最近の子供は……」という前に、現在のような酷い環境を子供に与えたのは私たち大人自身であることを考え直したいものです。 『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.07.03 00:00:18
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